折々の記


南三陸町で災害ボランティアを体験(6月7日)

前夜のうちに高速道路を通り築館ICを経て南三陸町に向かった。やはり、関東からは遠く時間がかかる。途中のコンビニで明日の朝食と昼食のおにぎり、お茶などを買い、南三陸町の手前の道路から少し入ったわき道の片隅で車中泊。

朝早く起きて朝食を取り、南三陸町のボランティアセンターに向かった。途中、被災を受けた南三陸町の中心部の市街地を通った。驚いたことに市街地の瓦礫、建物が無残に壊れた状況は地震、津波直後のテレビで見た映像と変わらない。道路上の瓦礫は道路脇に撤去されて車が通れるようになっていたが、3ヶ月経っても全く復旧に入れずにいることを知り、改めて震災の大きさ、復旧の難しさを痛感した。

災害ボランティアセンターは南三陸町の高台にあるベイサイドアリーナという大きな施設の横に有った。ここには、仮設の町役場が設置されているとのこと。横の広い駐車場にはには仮設の町立病院、前の広場には支援のための自衛隊駐屯施設,重機が見えた。

広い駐車場に車を停めて、目の前に止まっていた静岡ナンバー、室蘭ナンバーの車の方にここでのボランティアの様子を伺った所、彼らは30日以上ここでテント泊や車中泊しながらボランティア活動を続けておられるとのことであった。彼らはここで長い間ボランティア活動をしているので事情が分かってきて抜けるに抜けられないと言っておられた。いろいろやっていると不満な点も見えてくるとも言っておられた。

南三陸町は町の殆んどが大きな被害を受けたので地元のボランティアの数は限られるし、また、関東など都市部から遠いので遠方からのボランティアの数も少ないと言う印象を受けた。NPO団体のメンバーが個々のボランティアセンターの運営をやっておられるとのことであった。NPO団体の方、個人で長期間やっておられる方の尽力でボランティア活動が出来ている。本当にご苦労様です

被災地はどこでも同じようなものだろうと思っていたが、個々に抱えている問題、事情は異なると実感した。

8時過ぎになると続々宮城ナンバーの車が駐車場に泊まり、ボランティアの数は増えてきた。8時半からボランティアの受付、割り振りが始まった。割り振りを取り仕切っているボランティアの女性がてきぱきと決めていった。ここでも瓦礫撤去の要請が多いようであったが、支援物資の仕分け、大工さんのお手伝いなどもあった。

自分の名前を呼ばれて、3人で被災者への自立支援米の支給業務のお手伝いを向かいのベイサイドアリーナの正面一階でやることになった。長靴、長袖のシャツから屋内業務の格好に履き替えて仕事の説明を受けた。

6月6日から10日まで南三陸町の被災した住民に20kgのお米を支援米として無料で支給するとのことであった。先ず来られた人は申し込み書に必要事項を記載して受付に行き、係員によるパソコンでのチェック受けて引換券をもらい、引換所でお米を受け取る。

我々の仕事は最初の申込書を書く段階での説明を行なうことであった。なおパソコンによる受付チェックは東京から派遣された役所の人行なっており、お米を引き渡すのもボランティアの人がやっているようであった。

申込書に記載する欄は震災時点の住所、所帯主の名前、現住所や避難所の名前などを書く欄がある。受付がしやすいように来られた方に説明しながら記入して貰う作業は多くの被災者の話、実態を伺うことにもなる。

所帯主のご主人や父親が未だ行方不明の方も何人かおられた。小さな子供をつれた若いお母さんが主人は未だ行方不明でと言われた時には何と言って良いか分からなかった。また、70代の女性で元気な方がこんな苦労するくらいなら自分も津波に流されて死んだ方が良かったと言われた時には、そうかも知れないと思いながらも身体はしっかりしているようだし頑張って長生きしてくださいと返答したら、そうだね100歳まで頑張って長生きするぞと空元気だろうが言っておられた。

避難所にいるのに今お米をもらっても置き場もないし仕方が無い将来必要になるだろうが何時まで受け付けるのかとか、この支援米を支給すると言う連絡は役場から無く知り合いに聞いて来た。もっと連絡をきちんとやって欲しいなどと言う苦情もあった。

それぞれもっともな意見であったが、にわかボランティアとして何と言ってよいか分からない。町の役場の人も殆んどが被災者であり、業務も沢山あリ、この場には役場の人はいないようであった。

このような作業を3人で昼休みや適当な休みを交代で取りながら9時から4時過ぎまで行い本日の作業を終えた。一緒にやった大阪のFさん、宮城栗原市のTさんお2人とも気が利く良い人達で初対面であったがチームワーク良く作業が出来た。

泥かき出し作業などより軽作業であったが、大勢の被災者の方と接して話を聞きながら少しでも支援出来たかなと思った。帰り際には具沢山の焼き飯を頂いた。非常においしかった。

今週末までこの作業は続くが一緒にやった3人とも今日でお終い。一人くらい経験者がいると明日からの作業に都合が良いのだがと言われて少し心が動いたが、明日は用があるし自分の畑も気になるので帰ることにした。

まだまだ、復興は見えてこないし、ボランティアも必要だろう。近いうちにまた来ようカと思いながら帰途に着いた。


南相馬市鹿島地区で2度目の災害ボランティアを体験(6月5日)

5月のGWには大勢のボランティアが全国から被災地に向かったが、その後は少なくなったとのことである。3ヶ月近く経ったが、復旧はまだまだで災害ボランティアのニーズは大きい。4月に訪れた南相馬市のボランティアセンターに電話したら受け入れを歓迎するとのことであった。4月から状況はどう変わったかを見てみたいとも思い再度訪れた。

4日の夕方自宅を出て北関東自動車道、東北自動車道を経て松川福島PAから南相馬に向かった。前回同様川俣、飯館を経て飯館村の村民の森あいの沢と言う公園に上がり車中泊した。飯館村は避難区域に設定されたため道路沿いの家は灯りがついておらず全く人気が無い。所々灯りがついている家は避難されず残っているお宅だろうか?

翌朝早く起きて南相馬市に向かい前回は通らなかった海沿いの道路を通って見た。道路上の瓦礫を撤去して通れるようになっており、大きな瓦礫は瓦礫置き場にでも移したように思えたが、まだ壊れたトラクターや車の残骸が道路わきに残っており復旧はまだまだである。さすがに前回多数見られた打ち上げられた漁船などは撤去されていた。

    

海岸沿いだが高台に立っている火力発電所は無傷のように思えたが、下の港や燃料の積み入れ貯蔵施設、送電線が壊れて使い物にならず未だ稼動出来ない状態とのことであった。

8時前に災害ボランティアセンターに向かい登録すると共に、支援物資として持参した2日前に掘った新ジャガイモ5kgくらいとパセリの苗10株ほどを
隣の避難所の受付に届けた。このようなものを受け容れて良いかどうか市役所の担当者に電話して聞いて見なければいけないと言っていたが、結局は喜んで受け入れてくれた。

8時半にボランティアが集合。全員で70〜80名だろうか?多くは地元のボランティアのようだったが遠方から来られた人もいる。仕事は被災した小学校の瓦礫撤去と後片付け清掃、個人のお宅の瓦礫撤去片付け、写真やアルバムその他遺留品の清掃であった。多くのボランティアは小学校や個人お宅の瓦礫撤去の方を希望していて、遺留品の清掃は一人しかいなかったのでそちらをやることにした。

リーダーは地元のボランティアで長いことここの遺留品の洗浄、展示に携わってきたお2人。東京から来られたと言う女性のボランティアと私の4人で、前にも行った遺留品が置いてある倉庫に向かい作業開始した。

リーダーの地元のボランティアの方は最後までこのボランティアを続ける積りだ、この作業のボランティアの希望者は少ないのでなかなか進まず、後一ヶ月以上かかるだろうと言っていた。

前より遺留品の数はかなり少なくなっているもののまだ持ち込まれて来るものもあるという。更に、洗浄が難しいものが残っているので作業に時間がかかるとのことであった。

写真、アルバム,手紙の汚れを取る作業を続けたが、泥土の汚れがかわ張り付いていて取り除くのに時間がかかる。力を入れすぎると写真やアルバムを傷つけてしまうし、力を入れないと汚れが取れない。手加減が結構難しい。途中昼休みの休憩を挟んで9時過ぎから3時半まで作業を続けたが出来たのは多くない。残念ながら瓦礫撤去をするより達成感が少ない。希望者が少ないのも分かるような気がした。

4月に同じ作業をやったときはリーダーは遠方から来たボランティアで10人近い人がこの作業にあたっていたが、一ヶ月半以上経ても同じような作業が必要なことを再認識した。

ボランティアセンターに戻って終了の受付をして車に戻り、翌日の月山山行のため麓の志津温泉に向かった。

南相馬市鹿島地区で災害ボランティアを体験(4月17,18日)

東日本大地震から既に一カ月以上経っているのに復旧は遅々として進んでいないようである。震災直後の緊急の支援、ボランティアは終わったかもしれないが、避難している人は未だ大勢いるし、復旧支援はこれから必要になる。特に南相馬市などの周辺の地域は大津波で被害にあったにもかかわらず、原発の事故のため放射能の問題もあり支援は充分で無く問題であろう。

RSSAのMLでMさんが災害ボランティアは山行きと準備、行動が似ているのでボランティアーに一緒に行きませんか?との勧誘があった。。

災害現地はどこでも人手が必要である。自分も猫の手よりはましだろうと好奇心もあり手を上げたが、体力のあるMさんと遠方まで行き同じ行動をするのは少し不安。そこで、単独で行くことにして南相馬市の災害ボランティアーセンターに電話したら、受け入れを歓迎するとのことであった。

南相馬市は自宅から北関東自動車道、東北自動車道を経由して車をガソリンを満タンにしていけば丁度往復できる距離にある。16日夕方から出かけ、17,18日のボランティアーをやることにした。

南相馬市は原発から20〜30km圏内の地域もあり避難するかしないかで混乱しているところもある。また、海岸沿いは津波の被害が大きいがまだあまり支援の手が届いていないようである。

16日の夕方自宅を車で出た。いつも山に行く時の車中泊用の寝袋、マット、食料品とガスボンベとコンロ食器セットを積み込んだ。更に、箒と5,6枚のぼろ雑巾、支援物質になるかどうか分からないが大きな箱一杯の取れたての根、泥つきのネギを臭いが出ないようポリ袋を被せて積み込んだ。根、泥つきのネギは生ものだが比較的長持ちするし、ラーメンや味噌汁に入れるとそれだけでおいしくなる。

東北自動車道は上下線とも大型トラック、災害支援の車、警察、自衛隊関係の車の通行が多かった。二本松ICを出て安達、川俣、飯館を通る山道を進んだ。飯館村は何の被害も心配も無さそうな山村に見えたが、放射能が強い地域としてメディアに良く登場する。夜間通行したのでよく分からなかったが、道路沿いも人気、明かりが少ないように感じた。

途中、飯館村の村民の森あいの沢と言う公園に上がり、ここで車中泊することにした。公園はもちろん人気が無く閉鎖されていた。

4月17日:遺留物の洗浄、思い出おかえし隊のボランティア
17日朝6時ごろ起きて朝飯後、南相馬市に向かった。少し迷ったが災害ボランティアセンターがある南相馬市社会福祉会館に7時半頃到着。広い駐車スペースには支援の車が沢山停まっていた。あたり一面桜が満開できれいである。辺りを見回したところ地震や津波の被害は見られず、来る場所を間違えたかと一瞬思ったほどである。ここは比較的内陸部にあり被害は大したことが無いようであるが、海岸沿いは津波で全滅の悲惨な状態になっている。

   

8時過ぎにボランティアー受付に行き説明を聞き登録した。持ってきた支援物資のネギを渡した。比較的長持ちしますが、生ものですので出来るだけ早く食べてくださいと言ったが、人手が足りないのでその処理にお手が回らず腐らしてしまい捨てる手間がかかってしまう支援物資災害とならないか若干気がかり。担当の方はこの地区はスーパーが未だ開業しておらず、生の野菜は充分役に立ちますと言ってくれたが。

ボランティアーの受付業務も殆んど若いボランティアがやっていたが、熱心にてきぱきとやっていて頼もしく思った。ボランティアの半数以上はもちろん地元の人で、残りは遠方から来た人のようであった。東京など関東地区、長野、京都大阪など関西地区など全国各地からやってきている。私のような中高年もいるが、各地から来ている人は若者が中心。日本の若者も捨てたものでないと改めて感じた。

ボランティアがやる業務も非常に多岐に渡っているのに若干驚いた。

津波被害を受けた鹿島地区のお宅に行き泥土撤去、瓦礫片付けなどのおうち片付け隊、
津波被害を受けた鹿島地区から持ち帰った泥まみれの慰留物の洗浄と展示を行う思い出お返し隊
市役所の事務受け付け手伝い
物資の搬入業務
避難所の運営補助
復旧資材の受け入れ管理
ボランティアの受付業務
授業を受けられない小学生の学習指導など
新たな避難所の掃除、設置、設置作業など

本日は、遺留物の洗浄を行うボランティアに参加することにした。全部で10名くらいだろうか。リーダー(この人もボランティア)の指示に従い車に分乗して遺留物が置いてある場所に移動。大量の泥まみれの遺留物がプラスチックのかごに入っていた。一人が一つのかごを受け持って、中に入っている写真やアルバムなどの遺留物の泥を落とした。

被災者の皆さんはすべてのものを家に置いて着の身着のままで逃げられている。家は津波で押し流されたのですべてのものが押し流されて泥をかぶっている。結婚式や出産、旅行、卒業式、家族の写真やアルバムを見ながら泥を落としたり洗浄する作業は何とも言えないものがある。

    

位牌、アクセサリー、貯金通帳、鞄、楽器などいろいろのものが入っていた。

昼休みを挟んで4,5時間かけても洗浄できたのはかご一個分。それも完全とは言えないし、カラー写真などは色素が流れて駄目になったものも結構ある。新たに消防団から持ち込まれて来る遺留物のほうが処理したものより多いくらいである。

それでも、被害を受けられた方が見に来て自分の写真や持ち物をうれしそうに持ち帰られたのを見ると嬉しくなる。この作業を遠方から来て一週間もずっとやっておられる方もいる。

4時前に作業を中断して片付けて掃除をして本日のボランティアは終了。車に同乗してセンターに戻った。後は自分の車に戻り、横になった後、カップラーメン、山用のフリーズドライの五目御飯、味噌汁で夕食。後は車の中で寝るだけ。

4月18日:泥土出しのボランティア(お家かたつけ隊)
朝6時前に目が覚め、6時半に起きて朝食。7時半にはもうボランティアの受付の人が準備をしていた。ボランティアの登録、今日は泥土出し、瓦礫の撤去のボランティアを体験することにした。昨日と比べて重労働とのこと。今日は昨日に増して大勢の人がボランティアに参加していた。中高年の多くは地元の方のようである。また、昨日以上にやることが多いと言う。仕事の割り振りなどもボランティアの責任者が次々と決めていった。

泥土だしのボランティアは全部で10数人。先ず、リーダーの車について資材を置いてあるセンターに向かった。その後、4,5人が一組になり、個人のお宅に伺い津波が運び込んできた大量の瓦礫、泥土を撤去する仕事を行う。自分の車(ワンボックスカー)に一輪車やシャベルデッキブラシなどを積み込んで、一人助手席に乗ってもらい先導の車に付いて今日の依頼主のEさんのお宅に向かった。後ろに3人が乗った車が付いてきた。今日のチームは全部で5人。

始めは津波の被害地などどこにあるのと言う感じであったが、着いて見るとびっくり。車や人が通れる道は確保されているが、辺りは瓦礫が散乱している。Eさんのお宅の目の前は田んぼで海岸まで2,3kmの距離はありそうだが、海岸まで瓦礫が散在している以外何も無い。近くにはかなり大きな船(漁船が)田んぼに横たわっているし、大きな松ノ木が根こそぎ倒れており、ビニールハウスの鉄パイプが無残にひん曲がっていた。海岸沿いの道沿いには人家があったそうだがすべて流されて何も無くなったとのことであった。

Eさんのお宅も津波が1m以の高さで来た様で、外見はなんでも無い様に見えるが、家の中は泥だらけで有ったようである。結構丈夫そうな塀は流れてきた舟と激突したためか壊れていた。家の中はEさんが方付けて洗浄をしていたが、それ以外には手が回らず庭や農機具、トラクターなどを保管していた横の倉庫は泥土と稲わらにまみれていた。この泥土は稲わらと混じって10cmmくらいの厚さになって一面を覆っていた。稲わらは昨秋コンバインで稲刈りをしたとき肥料としてすきこんで使うため置いてあったものが大量に津波に運び混まれて泥土と混じったようである。

    

我々、5人のボランティアの今日の仕事はこの倉庫の中と庭の泥土出し。乾いたところは壁土のように固くスコップでも容易に取り出せない。持参した一輪車、スコップの他、Eさんの所にあったホーク,三角鍬、一輪車を使って泥土を目の前のEさんの田んぼ片隅に運び出した。下はコンクリートであるが、ものすごい大量の泥土。置いてあった管理機、比較的新しいトラクターも津波に被ってわらくずや泥まみれ。

5人がかりで、午前中に倉庫の中の泥土を運び出した。昼休みは一時間。3人は車で食べに行った。パンを持ってきた自分はEさんの家族と話をしながら昼食。野菜やおにぎりまで分けていただいた。津波の時に逃げた話などを伺った。

午後からは倉庫とつながっている庭の方の泥土、稲わら、ゴミなどの撤去。3時で本日の作業は終わりとなったが、未だ庭の半分以上の泥土、ゴミ、藁くずの撤去が終わっていない。

Eさんから感謝の言葉とジュースなどを頂き、、持ってきた一輪車、スコップなどを積み込み、センターに戻った。センターに器具を返却し、報告を終えてから、チームの5人で記念の写真を取り解散した。その後、少し後ろ髪を惹かれる思いをしながら帰路に付いた。途中6号線沿いを通って行ったが、海岸沿いは瓦礫の山で、大小の船が横たわっているのに、内陸側はなんとも無い。そのあまりの違いに驚いた。

            

目の前の田んぼに拡がっている大量の瓦礫、横たわっている壊れた大小の船など全く片付いていない。復旧と言っても膨大な作業が必要であることを実感した。

そして、北は青森県の八戸から南は千葉県の旭市まで海岸沿いはみな似たような状況であろう。その上、福島県の海岸沿いは原発の放射能の問題もある。まだまだ、多くのボランティアも必要であろう。

今回、若い人に混じって同じ作業をしたが、やはり腕、肩、腰が痛くなった。菜園の農作業よりきつい。年玲の差を痛感するとともに、自分の体力を考えると2日くらいが限度かなと思ったが、良い経験をさせて貰った。

大勢の若い人が各地からやって来てボランティアをやっていることを頼もしく思った。また、それほど大勢でないが遠方からの中高年の人も頑張っていた。