印象に残った山歩き
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八が岳(2899m)
  
八が岳は日本百名山で初めて登った山であリ、その後覚えている範囲内で4回行っている。1956年の中学2年生の時、信州大学農学部の野辺山農場の寮に宿泊した林間学校で、先生や大勢の級友と一緒に日帰りで県界尾根を通リ赤岳を往復したのが最初である。

  その2年後の高校一年の1958年の7月下旬に、今度は単独で八が岳を小屋泊まりで縦走した。今でも単独行で高い山に行くとよく一人で行くねと驚かれることがあるが、50年以上前の高校一年生の時良く単独で行ったなと我ながら感心する。小屋泊まりとは言えたいした装備も無くズックの靴で行った。
  その時は初日は野辺山に行き駅前の一軒しか無い小さな旅館に泊まった。今でも当時と同じ位置に同じ名前の旅館と土産物屋があるが、辺りの様子はすっかり変わってしまった。当時は原野の開墾が始まったばかりで周囲の殆どが原野で、今のように広い高原野菜の畑は無かったし観光地でもなかった。まして東京天文台の電波望遠鏡なども無かった。
  野辺山の駅前旅館に一泊した翌日、飯盛山に行き当時趣味であった蝶の採集をした。コヒョウモンモドキ、ギンボシヒョウモン、コヒョウモン、アサマシジミ、ゴマシジミ,ミヤマシロチョウなどを採った記憶がある。その日は小海線に乗り松原湖まで行って旅館に泊まった。

  翌日朝早くおきて、松原湖から本沢温泉、夏沢峠、硫黄岳、横岳を経て、赤岳に達し頂上の山小屋に泊まった。朝は晴れていたが、横岳を通過する頃小雨になり滑りやすい登山道を辿った記憶がある。翌日は快晴で、赤岳からキレットを経て権現岳に上がり、ここより甲斐大泉だったか甲斐小泉に下った。途中は20代の男女6人のパーティーと相前後して歩き、クモマベニヒカゲやベニヒカゲなどの高山蝶を採りながら降った。

  これから40年くらい経た10年位前に、昔の記憶を頼りに前と全く同じルートで八ヶ岳の縦走を行ってみた。頂上の山小屋はきれいになっており、中高年の登山客が殆どであった。登山靴など装備は当時と比べて格段に良いはずであったがキレットの降り登りはつらかった。あの時は鼻歌交じりで通ったような気がする。自分が年取った事を痛感せざるを得なかった。

  それからさらに10年が経た今、同じルートを辿ったらどうだろうか?


宮之浦岳(屋久島)(1936m)
 
 宮之浦岳に登ったのは2回だが、いずれも45年以上前のことである。九州の南の島に九州で最も高い山があることと亜熱帯の島と言うことに興味を持ったからではないかと思う。一回目は大学2年生の時の前期試験後の秋季休み(1962年10月)、2回目は大学4年生の夏休み(1964年8月)であった。2回とも単独行で、初日は安房からトロッコの軌道を歩き小杉谷に行き、小杉谷にあった営林署の小屋に泊めて貰った。当時は小杉谷には屋久杉伐採のための営林署があり、営林署職員の家族が住んでおり小学校もあったように記憶している。今は小杉谷はどうなっているのだろうか?

  一回目は小杉谷から日帰りで花の江川を経て宮之浦岳を登り小杉谷に戻ったように記憶している。頂上に至る稜線では雨となり、濡れながら歩いた記憶がある。小杉谷から花の江川に至る登山道は今は廃道になっており通れないと言うことをガイドブックで知った。

  二回目は時間的に余裕があった。装備も寝袋、ツエルト、食料、固形燃料を持って行った。初日は一回目と同じ安房から小杉谷まで行き宿泊。翌日は前回と同じ花の江川を経て黒味岳に登った。天気が良かったので、宮之浦岳の手前の稜線の石楠花の下のふかふかした所でツエルトを被り野宿。翌日は宮之浦岳から永田岳、鹿の沢を経て永田まで下った。この日も天気が良く宮之浦岳から太平洋を見下ろしたような記憶がある。永田までの長い下りではやはり縦走していた2人ずれと相前後して降り、永田部落では公民館に泊めて頂いたように思う。

  一回目は誰一人会うことも無く、また二回目は2人ずれに会っただけで静かな山旅であった。
  今は百名山とかで屋久島も人気が出てきており、ツアーも組まれている。もう一度行ってみたい気もするが、昔の静かな雰囲気は残っているであろうか?


  上の宮之浦岳の登山記は45年前の記憶を基に書いたものであるが、途中で山のスケッチをした記憶がある。ひょっとしたらそれが残っているかも知れないと古い資料などを保存していた段バールの箱を探して見たら、その時の山行記録とスケッチがあった。山行記録を見て自分の記憶が如何にいい加減であったかを思い知らされた。面倒くさがり屋の自分としては良く詳しい記録を取っていたかと感心するが、逆を言えばそれだけ強い思いがあったのであろう。改めてその記録を基に書く。

昭和39年8月6日: 東京発名古屋行き夜行普通列車で名古屋に行き、
8月7日: 朝、名古屋から急行鹿児島行き「さつま号」に乗り換えた。

8月8日: 早朝に鹿児島着。鹿児島港を朝8時発の屋久島行きの定期船に乗った。安房港は波が荒いため接岸できず宮之浦港に迂回。宮之浦から安房までバスで3時半に安房着。安房から小杉谷までは営林署の軌道がありトロッコが走っている。観光協会が一日に一回だけ、300円でトロッコで小杉谷まで乗せてくれるが、今日は既に出た後であった。そこで、バスで尾之間に向った。途中でスコールのような豪快な雨が降ってきたがすぐに晴れた。5時半に尾之間に到着。ここの温泉旅館に宿泊。硫黄の臭いがする。公衆浴場はひなびた感じ。客は2人連れの女子大生、鹿児島から来たと言う男性の2人連れと自分の5人。2食付宿泊料700円。

8月9日: 尾之間9時発のバスで安房に向う。鹿児島から来た2人ずれもこのバスに乗った。本富岳の奇怪な山様が目立つ。回りにはパパイア、アコウ樹が見える。途中の川は美しい流れで水がきれい。安房着10時。安房川もきれい。ツマベニシチョウ、ツマグロヒョウモンが飛んでいた。観光協会に300円を払って小杉谷行きのトロッコに乗った。結構高い。鹿児島から来た2人連れも同乗した。10時半に出て11時40分に小杉谷に着いた。途中の安房川の景色が素晴らしい。小杉谷でぶらぶらしてから、1時半に小杉谷を出発して2時半に石塚に到着した。この石塚と言うのは今は無い。現在の楠川歩道入口の小杉谷山荘跡地で無いかと思う。石塚の佐々さんのところでお茶を頂き、花の江川の小屋は雪でつぶされたと言うことを伺った。花の江川までの途中で小屋は無い。仕方が無いので石塚の集会所に泊めて貰うことにした。昨日ここに泊まった学芸大の女子学生2人が下って行ったが、彼らは財布を忘れていた。本日、石塚集会所に泊めて貰った同宿者は慈恵医大の学生4人と小学校の先生で画家のS氏及び自分の計6人。食事まで出して貰った。夜は石塚在住の人がやってきて話し込み、就寝は9時半過ぎとなった。良く眠れない。

8月10日: 4時半起床。インスタントラーメンで朝食。後片付け、準備をして6時20分に同宿者と相前後して出発。 本日は快晴。
10時に花の江川着。ここで長い休憩。 11時40分に花の江川を出発。雲がかかりだす。12時半に黒味岳に到着。目の前の宮之浦岳が美しい。海が見えた。北側は雲で見えない。13時に下り始め、13時30分に登山道に戻った。ここで、今朝から一緒に来た5人と別れた。彼らは栗生に下っていった。自分は先に進み、14時に投石の岩屋に着いた。昨夜の睡眠不足で頭痛がしてきたのでここに泊まることにした。休んでから宮之浦岳の方に行く途中で、東大、医科歯科大のワンゲルのグループに出会った。 5時半から6時に夕食。本日、この狭い岩屋に泊まるのは宮之浦の中学生と高校生の2人づつの計4名。さらに後から、男1人女2人の3人連れのパーティーが来た。窮屈なのと雨が降りそうもなかったので、外で眠ることにして石楠花の木の下にもぐりこんで寝た。丁度良い暖かさであった。目を開けて上を見ると満天の星がきれい。

8月11日: 5時起床、ガスがかかっている。ついていいない。まずい朝食を取り、準備して6時半に出発。7時45分に宮之浦岳(1935m)に到着。永田岳、口永楽部島は見えるが、黒味岳、種子島の方面は雲がかかっていて見えない。8時半に宮之浦岳を出発。背丈ほどの笹薮を藪こぎしながら進んだ。体力を消耗。9時半に永田岳に到着。永田岳の北壁が切れ込んでいて永田の部落が雲の合間から見渡せた。10時半永田岳発。11時半に鹿の沢到着。ここで昼食を取り、12時に鹿の沢を出発。2時半姥ヶ岩屋に到着。永田川出会いに5時半に到着。ここで水浴。6時半に出会いを出発。7時に永田に到着。公民館(集会所)に泊めて頂いた。

  
お金は無いが時間と体力があった学生時代の山旅であることがこの記録から察せられる。この記録を見て、自分の記憶と異なり結構大勢の若者が屋久島の山に登っていたことが分かった。多分この2年前に初めて行った時は10月で入山者が少なかったため、その記憶が焼きついていたのかもしれない。今もそうだが、当時も単独行で途中であった人と良く会話を交わしてしていたことが分かった。以下はその時書いたスケッチをスキャナーで読み取ったもの。下手だが、写真の代わりに書いていたようだ。

     

       


Mt.Whitney(アメリカ、カルフォニア)(4418m)
  
Mt.Whitneyはアラスカを除いたアメリカ本土では最も標高が高い山である。カルフォニアのシェラネバダ山脈にある。アメリカ本土では最も標高が高いアメリカ人にも人気がある山で、一日の入山者の数を規制する入山規制がされている。

  このMt.Whitneyに登ったのはアメリカのサンディエゴ近郊のソーク生物学研究所でポスドク(博士研究員)をやっていた時(1974年)の9月上旬の連休の時であったから、今から35年前になる。その年の10月には日本に帰国予定の忙しい時期であったが、アメリカ滞在中の最後の思い出にと意を決して妻とともに出かけた。当時家族ともども友人となったLさんの奥さんが妻に良い所だから一度行くと良いですよと言われた事が後押しとなった。

  テント、寝袋、食料、固形燃料などを持って、朝早く自宅のアパートを車で出て、(ひょっとしたら前日の夕方に出て途中のモテルで泊まったかも知れない)麓の町ローンパインを経由して昼過ぎに登山口に着き駐車した。ここで既に標高2800m位あったのでないかと思う。準備をして妻と登り標高3200〜3400m位の平坦なところでテントを張り泊まった。記憶が定かでないが、この山を良く知っておられた親切な方(レンジャー?)が一緒になり、途中で妻の荷物を担いでくれて適当なテントサイトを教えてくれたような気がする
  翌朝早く起きてテント寝袋などはそのままにして、食料、水などをザックに詰めて頂上を目指した。登山道や辺りの雰囲気は日本の北アルプスに似ていたと言う印象があるが、北アルプスより標高は1000m高い。妻は3700m位まで上がった所でもう上に行くのはイヤだと言い出した。富士山より高い所まで行けるよ、とりあえず峠(Crest)まで行こうとなだめて昼ごろCrestまで上がった。ここで、標高は4000m以上であった。反対側はシェラネバダの膨大な山並みが見渡せた。ここから、一週間以上かけてシェラネバダを走破すると言う若者もいた。

  妻はこれ以上は行きたくないと言うのでここで待ってもらい、自分だけデイパックで、殆ど駆け足状態で頂上まで上がって行った。頂上近くは雪田があり、避難小屋があったように記憶している。ここで、頂上に上がったという証拠写真を撮り急いでCrestまで戻った。多分Crestから頂上往復に頂上滞在時間を含めて2時間はかかっていなかったと思う。

   Crestに戻ったとたん、気分が悪くなり吐き出してしまった。多分高山病の症状だったのであろう。しかし、吐き出すと気分は良くなった。、長時間の休憩を取った妻とテント場まで戻ったのは日没直前であった。軽い夕食を取り寝袋に包まって寝たが、寒くて朝早く目が覚めた。テントを撤収して、登山口まで戻り、車を駆ってその日のうちに自宅のアパートまで戻った。

  思い出せば、かなり無理をした登山であった。若かったから出来たと思う。今では妻はちょっとハードな山歩きだと一緒に行くのはイヤだと言っている。
以下はその時取った写真をスキャナーで読み取ったもの。色あせている。

頂上からの眺望                  頂上にあった避難小屋             Crestで            Crestで
      



竜爪山(1051m)
  
竜爪山は静岡市近郊の山で静岡市民のハイキングコースである。東海道新幹線で静岡に近づくと、北側に見える双耳峰で目立つ。ただし、竜爪山の手前には高山と言う双耳峰が見えるがこちらは標高が低い。竜爪山の双耳峰の一つが薬師岳、もう一つが文殊岳というので信仰の山であったのであろう。
  竜爪山には中学、高校時代に何回行ったであろうか?。春から初秋にかけて天気の良いときには蝶の採集に毎週のように出かけた。殆どが自転車で麓の平山まで行き中腹の神社までの往復が多かったように思う。バスで平山まで行き平山から神社、双耳峰を経由して、麻畑に抜けたこともあった。夢中になってアサギマダラやギフチョウを追い回した頃を懐かしく思う。
  神社から頂上近くは杉林であったが、頂上から麻畑までの尾根筋はススキのかやとで見晴らしの良い登山道が続いていたように記憶していた。しかし、10年くらい前に平山から神社を経由して頂上から麻畑まで歩いた事がある。かやとの尾根道は杉の植林で昔とすっかり雰囲気が変わっていた。

  4月始めには高山で沢山のギフチョウが群れ飛んでいるのにお目にかかったが、今は静岡近郊のギフチョウは殆どが絶滅したとの事をインターネットで知った。本当だとすると残念なことである。

  中学、高校時代に何度と無く竜爪山に行ったのがが趣味の山歩きのきっかけとなった。冬場に竜爪山に降雪があったときに、平地では雪を見ないので、わざわざ行ったこともあった。