思い出に残った山スキー

                                                        
 1.八幡平 (1969年4月)
    (八幡平スキー場-茶臼山-八幡平-籐七温泉-蒸けの湯-御生掛温泉-毛せん峠-焼山-玉川温泉-トロコ温泉)

山スキーをやるようになって2〜3年後の1968年と1969年の大学院在籍時の4月上旬、春の学会が終わった後新学期が始まるまでの4〜5日間を利用して、単独で八幡平へ山スキーに出かけた。もう40年前になる。夜行列車で盛岡まで行った後、八幡平スキー場に向かい、八幡平ユースホステルに宿泊した。

   一回目の1968年は初日は八幡平スキー場でゲレンデスキーを楽しんだ。翌2日目は好天であったので、単独で八幡平スキー場のトップの大黒森から茶臼岳、黒谷地、源太森をを経て八幡沼沿いの山小屋の陵雲荘にたどり着いた。陵雲荘は無人であったがきれいな山小屋で、薪とストーブが備えてあったように記憶している。そこから、籐七温泉に下り、宿泊をお願いした。

   当時、籐七温泉はその時期でも旅館番の人がいて泊めたくれた。その日はその後。モッコ岳まで上がり、あたり一面樹氷になっている周囲を見下ろした。籐七温泉に戻り広い温泉の湯船を独り占めにしてゆったりとした。

   夕食かあるいは夕食後、多分アルバイトで冬季旅館番をしていたお2人とコタツに入りながら話をしたように覚えている。お一人は東大卒で哲学だったか宗教学だったかを専攻した男性、もう一人は関西で会社勤めをしていたが、いやになって会社を辞めたという女性であった。2人とも自分と同じような年齢で、少し変わった方々だったので記憶に残った。

   翌日は小雪交じりの天気であまり良くなかったが、前日のトレースがはっきり付いていたし見通しは良かったので八幡平スキー場に戻った。途中ガスがかかってきてホワイトアウト状態になりかけた所でトレースを見失い怖い思いをしたが、間違った方向に行っていることに気づき、ガスの切れ目を待って正規のルートを見定めて八幡平スキー場に戻った。この時、ホワイトアウトになると道迷いになり危険だと痛感したが良い経験であった。

   翌年の1969年のほぼ同じ時期に再度八幡平スキー場に行き八幡平ユースホステルに泊まり、前年と同じように大黒森、茶臼岳、源太森を経て籐七温泉に向かい宿泊した。この時もやはりモッコ岳に上がった記憶がある。

   この時の旅館番の人は前年いたお2人で無かった。この2人の消息を聞いたところ、男性は松尾鉱山で高校の社会の先生をしており、女性は大阪に戻り結婚したとのことであった。このお2人は今どうされているのであろうか?

   この時は宿泊したのは自分以外に男性2人連れの山スキーヤがいた。翌日朝あまり天気が良くなかったのでこの2人と八幡平見返峠、蒸けの湯、御所掛け温泉まで同行した。

   この後天気が良くなったので、御所掛け温泉からそのままトロコ温泉に下っていった2人連れと分かれて、単独で毛せん峠、焼山を経て玉川温泉に行き宿泊した。コース沿いには標識があり間違わないで進むことが出来たように覚えている。焼山の下りではすぐ目の前をウサギが走っていくのを見てびっくりした。玉川温泉では今年初めての客だと歓迎されて宿の人(多分冬季旅館番の人)と一緒に酒を酌み交わしながら話をしたのを懐かしく思い出す。

   翌日、玉川温泉からトロコ温泉まで道路沿いをスキーで滑り降りた。

   その時は道路の除雪はトロコ温泉までで、御所掛温泉への道あるいは玉川温泉への道は除雪されておらず、いずれもひなびた山の中の温泉で風情があった。

    10数年前の4月上旬に八幡平スキー場から八幡平を経て御生掛温泉までスキーで辿って見たが、籐七温泉は冬季休業で営業をしておらず宿泊は出来なかった。一方、御生掛温泉付近は秋田八幡平スキー場が出来ていてバスが通じていて、以前のひなびた感じは全く無くなっていた。

    玉川温泉も今は癌の治療に良いと言うことで大勢の癌の患者さんが逗留されており、山スキー客などは歓迎されないと聞いたがどうなんだろうか?



  2. 仙の倉山、東ゼン、三の字沢 (2002年3月)
   
(しっけい沢ルート間違い
 
   平標山はそれまで何回か往復していたのでルートはよく分かっていたが、仙の倉山の方に来たのはその時が初めてだった。早朝、元橋にある登山者駐車場に車を停めて平標山に上がった後、尾根伝いに仙の倉山に向かい11時頃頂上に着いた。頂上には先行者が一人おられた。その先行者の方と少し話をしたが、すぐに先行者は西北側に滑って行った。

    自分はシッケイ沢を滑るつもりであったが、仙の倉山の頂上は非常に風が強かったため地図やガイドブックを良く確認しなかった。仙の倉山から最初はそのまま北側の小さなピークの方角に向かった。しかし、出来るだけブッシュが少なく傾斜が緩いところをたどっているうち無意識に左側に向かって滑ってしまった。そのうち、右に廻れば良いと思っていたことをつい忘れてしまったように思う。

    しばらくして滑りやすそうな斜面、谷が見えたのでそちらに向かっていった。先に滑ったシュプール(先行のTさんのものと後で分かった)が見えたのでそのまま下ることにした。この時点で、谷筋で風も弱かったため、ゆっくり休んで昼飯をとり、地図、ガイドブックを確認した。そこで、正面には万太郎山も見えず、ここはシッケイ沢では無くどうやら東ゼンの沢であると気づいた。滑りやすかったのでそのまま下って行けば、仙の倉谷に出るだろうと降りていった。

     ところが東ゼンと三の字沢の出会いで、先行者のシュプールは登り返してるのが見えた。しかし、そのまま滑っていくと1400mくらいの所で滝にぶつかってしまった。下にそのような厳しい滝があることは知ら無かったし、はるか下の仙の倉沢の方は緩斜面で滑れそうな様子だったので、そのまま下に滑り降りてしまった。

   滝の上のすぐ近くまで行って、滝はもちろん右側を巻いて降りるのも非常に難しいことはよく分かった。しかし、ここまで降りてしまい登り返すのも大変だし、ここさえクリアー出来ればと躊躇しながらも、滝の右の急斜面をスキーを担いで降りようとザックにスキーを着け降りかけた。滝のすぐ近くまで行って見ると、滝の大きな水音が聞こえるし、雪の中に空いている滝壺が見えた。下はどうなっているか分からないし、どう見ても自分の技術、体力では無理のような気がしたので、登り返すことにした。

   それまでも滝を巻いて降りた経験は他では、何度かあるが、その時の比では無く、少し恐怖感を感じたので時間がかかっても登り返すことにした。登り返しているとき、はるか上に先行のTさんがいるのが見えた。随分のんびりした人だなと思ったが、実は私が滝を下って事故でも遭ったら大変と見張っていてくれたとのことを後で知った。感謝する。

   三の字沢を登り返したが、遅くならないよう、あせって登ったため、1900mくらいの尾根に着いた時には足がつってしまった。反対側を見ると、広い滑りやすそうなシッケイ沢の斜面が眼下に続いている。先行者数名のトレースも見えた。足がつって痛いのを我慢してシッケイ沢、毛渡沢を滑り降り、どうにか暗くなる直前に国道にまで出て帰った。


    この日は夕方から天気が崩れるという天気予報であったため、天気が崩れる前と、暗くなる前になんとか下まで降りたいと焦った。幸い天気は持ったし、時間もそれほど切迫していなかったのでなんとかなった。こういう時はツエルト、携帯電話、ヘッドランプを持っていると精神安定剤(?)になる。

    
シッケイ沢、毛渡沢は非常によい雰囲気の所だったので、来年は間違えずにゆっくりと楽しんでいきたいと思った。

 3.白馬鑓ヶ岳からの帰りの道迷い、ビバーク (2003年6月)

    
白馬鑓ヶ岳に行くのは今回が初めてで、いつものように単独行だった。当日は白馬鑓には誰も入っていなかった。 当初の予定は前日の夜遅く白馬の麓の猿倉に着き車中泊して白馬鑓ヶ岳を猿倉から日帰りで往復する予定だった。ところが、帰途のルート間違いによりビバークをすることになってしまった。このルート間違いは全くお粗末なもので、他人に言うのもみっともない。いい年をして何をやっているンか?などと言われそうだ。

      昨年もしっけい沢でルート間違いをしたが、今回も見通しの良いところでルート間違いを犯した。2度あることは3度ある、4度も5度もあり得る。今後の自分の自戒のためにも、こんなミスをすることもあり得るということを他の人にも知ってもらうという点からも書くことにした。しかし、このミスをした結果、せざるを得なかったフォーストビバークは非常に忘れられないものであった。

   7日朝、6時前にスキーをザックに着けて猿倉から白馬鑓を目指して夏道を歩き出した。尾根道に出てしばらくすると雪が出て来た。そのころ、4人ずれの中年の男女4人が後から来て追い抜いて行った。その人たちはこのあたりのことを良く知っていそうな雰囲気だった。このグループはてっきり鑓温泉の方に行くのかと思い、最後に歩いていた人にどちらまでと尋ねた。その人の返答、さー、どこまでかね。私は後にくっついていくだけだから,などと言った。彼らは道だとは思われないやぶの中を歩いて行った。

   雪が覆っているため、どれが夏道かはっきりしなかった。(注意してみれば解る)彼らの後を追っていったのがそもそもの間違いだった。でも途中で大輪のピンクの白根葵の群落を見ることが出来た。しばらく葉の落ちた林の中のブッシュをかき分けて歩いたところで、長走沢に出た。彼らは沢の対岸の方に行っている。変な人たちだと思ったが、どうやら山菜取りに来た人たちだと後で気がついた。

     長走沢の真ん中は土砂の混じったデブリで覆われており、比較的雪がきれいな左側をのぼっていった。本来のルートは小日向のコルを目指すべく途中で左側に行くべきところであるが、良く解らならなかったのでそのまま、長走沢を詰めて2070m〔高度計で見て〕の尾根まで上がった。目の前に杓子、鑓が見える。ここでスキーを履き、出来るだけショートカットすべくそのまま滑り出したが、杓子沢の方は急斜面で先が見えず、沢の雪が切れているとまずいと思い引き返し、先がよく見える湯の入沢の方に滑り降りた。標高差400メートル近く降りたことになる。11時近くになっていた。

     ここで一休みした後、シールを付けて広い湯の入沢を登り出す。落石もほとんど見あたらず、しまったざらめ雪で6月にしては非常によい状態であった。12時過ぎに鑓温泉に着く。さらに、アイゼンをつけて大出原を登って行った。2時頃になりガスが出だし鑓の頂上が隠れてしまい、あたりもガスが覆い始めたので,2600メートルくらいであったが引き返すことにし、スキーを着けてガスの切れ目を見計らって滑りおりた。非常に快適でわずかの時間で鑓温泉に着いた。

    ガスが完全にあがり、鑓の頂上も見えた。ここで、鑓温泉の露天風呂につかった。一人だけの貸し切りでのんびり辺りを見回しながら至福の時を過ごした。長湯をしたため、再度スキーを着けたのは3時。湯の入沢のスキーも快適で、下まで降りた後、シールを付けて小日向のコルまで上がり返し。小日向のコルについたのは4時を少し過ぎていた。ここから下る踏み後が正面の方と左側と2つあり少し迷う。地図を見ると左側であり、左側を滑り降りる。この滑りも快適だった。

    降りたところで下を見ると快適な広い沢が続いている。ここを、そのまま滑り降りたのがルート間違いだった。長走沢を登っている時に見たのと同じような木が右側にあったので、これが長走沢と思ってしまった。

   この沢は中山沢だった。後で考えれば、長走沢は真ん中が土砂でかなり覆われていたし、向こう側は高い尾根があるからすぐ気付くべきところが、一度これが長走沢だと思ってしまうと、考えがなかなか変わらない。一度身に付いてしまった固定観念を打破することが非常に難しいと言うことをこんなところでも痛感した。とにかく長走沢を下まで降りてと思ったので、スキーで滑れるところまで降りてそれからスキーを担いで沢をおり出しました。

    少し、厳しそうなのでそこで、引き返し、沢を登り返し夏道を行くことにしたのは良いのだが、この沢を長走沢だと思っているので反対側の小日向山側の林の中に入ってしまった。夏道を探すべくあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、あがったり、下がったりうろうろしている間にどんどん時間が経っていった。

  寒冷前線が通過したせいか、冷たい雨が降り出し、短時間だがあられまで降った。雷の音も聞こえた。服、下着は濡れてしまった。林の中の雪に靴の踏み後が付いていたことも間違いに気づくのが遅れた原因。〔多分山菜取りに入った人の踏み後でしょう〕この迷っている間も白根葵の群落を何カ所かで見た。

   もう6時過ぎ、こりゃやばいな、ぬれた序でに、沢を徒渉して水に浸かっても今日中に下ろうとこの沢をスキーを担いで、兼用靴で下り始めた。非常に滑りやすく何回か転び、その結果、ストックは一本おれてしまう。めがねのレンズの片方がはずれてとんで紛失する。ザックに付けたスキーが木に引っかかって宙づりになること2〜3回。そのたびごとにザックをはずしてやり直す。一度は滑って転んで上半身も沢の水に浸かってしまう。下に行けば行くほど沢の水は増えてくる。これ以上行くのは危険と感じ引き返す事にした。そこで、もう一度、小雨の中、地図を拡げて現在地を確認する事にした。無情にもGPSは電池切れ。(GPSは現在地の緯度、経度を知るだけに使っていた。)地図と回りの地形を良く見比べるとどうもおかしい。ここで、やっとこれが中山沢で長走沢でないことに気づいた。この頃既に7時近くになっていた。とにかく登り返したが、暗くなって歩くのはなお危険と判断してビバークをすることに決定。

    林の中の少し傾斜している落ち葉のあるところをビバークの場所とした。すぐに、ヘッドランプをチェックしたが、電池が残り少ないようで弱い光。さらにまずいことにいつもは日帰りでも持っているツエルトを車の中において来てしまっていた。濡れたままヤッケを上に着た。ザックの中身をすべて出して、スキー板、空になったザック、シールを下に敷く。頼みの綱は、細引き紐、バンドエイドなどと一緒に袋に入れてあった、レスキューシート(10年以上前に買ってそのまま使わずにいた。プラスチックのフィルムにアルミがラミネートされているやつ)を取り出し、拡げて体全体を覆って横になった。靴の中もぬれていて気持ちが悪いがそのまま。スパッツも付けたまま。ラジュースなど火を付ける道具も全くもっていなかったので、横になっておとなしく夜が明けるのを待った。

  幸い雨は上がり、気温もそれほど下がらなかった。とは言っても衣服、下着は完全にぬれていた。レスキューシートで覆っても時々ふるえが来て歯ががくがくした。微風でも風が当たると本当に寒かった。下着は山用で濡れても寒くないと言うのを着ており、少し厚手の毛のニッカーズボンをはいていたのは幸いだった。レスキューシートを試しにとって見たら、非常に寒い。レスキューシートの御利益は大したものだ。シートの内側には水滴が着いていた。

    殆ど眠らずに時々うとうとするだけで夜を明かしたが、この間、これまでにない素晴らしい経験をした。夜通し,郭公、ホトトギス、仏法僧、筒鳥の大合唱を間近で聞くことが出来た。目をあけると、葉の落ちた梢越しに星が瞬いていた。非日常のつらいけれど素晴らしいひとときだった。

    東の空が少し明るくなって来た頃、時計を見ると3時45分。4時前に起き出して、荷物をザックに詰め、スキーをザックに着け中山沢を上がって適当なところで右に行きブッシュを越えて長走沢に出た。ここでスキーを履いて下る。スプーンカットの雪で滑りにくかったがとにかく下る。下に行くと夏道に出るトレースがはっきりと見えた。とりあえず、長走沢をそのまま、下まで滑ってみる。下に堰堤が見える所の上部で雪が切れていて下ると沢の水に浸かってしまいそう。また水に浸かるのはしんどい。スキーを担いで登り返し、夏道を猿倉まで戻った。その後、極楽の湯で暖まってから、帰途についた。

    沢をおりようとして、転んだ時に出来た打撲傷、青あざ、切り傷が腰から足にかけて何カ所かできていた。おまけに左手小指の間接が骨折で未だに通院。足が骨折でなくて良かった。さんざんな今シーズン最後の山スキーだった。家内はこれに懲りてもう行かないでしょうねと言うが、来シーズンも懲りずに行くでしょう。

 4.上州前武尊・剣ヶ峰の雪崩事故の思い出  (1995年2月

  山スキーに行ったときの記録を取っていない私ですがこの時のことは今でもはっきり覚えている。記憶に残っていることを記載する。

  2月下旬の日曜日だったた。10時半頃、オグナ武尊スキー場リフトの一番トップから上がりだし、一時間ちょっとで前武尊の上についてほっと一息ついたところで、前武尊と剣が峰のコルの方から、助けてくれという声が聞こえた。

   急いでおりて行ったら、剣が峰から荒砥沢にかけてかなり大きな雪崩の後があった。幅70〜80m、長さ1kmくらいのように思えたが、もう少し小さかったかもしれない。雪崩はほんの5〜10分前に発生したという話。2人のパーティーで先に行った人は助かったが、後に行った一人が雪崩に巻き込まれたとのことであった。自分も荒砥沢を滑るつもりだったのでびっくりした。10分先に行っていたのなら自分が雪崩で死んだかもしれない。

  前武尊に居合わせた5〜6人のパーティーと一緒に捜索を始めたが、何せ、雪崩の範囲が広すぎる。初めの30分は本当に夢中になって探しました。しかし、ゾンデもビーコンも持って無かったので、捜索は効率的で無かった。見つかったのは、目出帽、ひん曲がったテルモスだけ。大自然を前に人間の力の弱さ、そしてむなしさを感じた。たまたま、5〜6人のパーテイーのひとりがトランシーバー(今みたいに携帯電話は無かった)を持っていたので、警察に連絡をしてくれた。

  30分位過ぎた所でもう駄目だろうと思うと、疲れがどっと出てきた。その後2〜3時間ほど現場に居合わせたこの7〜8人で捜索した。そのうち、遭難救助隊、警察が現場に来られ大勢で捜索。上空には捜索のためのヘリコプターが飛んで来た。結局、その日は遭難した方は見つからず、薄暗くなる前に重い足取りで登ってきたルートをそのままたどって帰った。

  遭難された方は私より少し年長の50代半ばの方ということだった(当時)。その時,同行されていた方はやはり同じような年格好だった。先に行っていて雪崩れにちょっとのところで合わずに済んだとはいえ、同行者の友人が亡くなられ事態を考えると、その心中を察するにあまりある。今、どうされておられるのだろうか?未だ山スキーをやっておられるのだろうか?

遭難救助隊の地元の方の話では、剣が峰は非常に雪崩が起こりやすい地形で、そんなところに行くのが間違いだと言っておられた。しかし、剣が峰に登って滑ることが出来ることもあれば雪崩事故が起きることもある。雪崩の事故は時々耳にするが、雪崩が起きるかどうか見極めるのは素人には難しい。これ以後、雪崩が恐くなった。本を見ると、見分け方が書かれているが、雪崩が起こりそうな斜面(無立木で傾斜が30度くらいで雨や雪の降った後など)は近づかない方がよさそう。

   ちなみに、1996年3月号の岳人にこの武尊山雪崩遭難事故の詳しい記述が掲載されている事を最近になって知り、知り合いにお借りして読んだ。あの時の遭難の当事者の詳しい記述で非常に興味あるものであった。遭難直後の救助、捜索活動に協力した当時のことを改めて思い出した。当日も私は単独行だったが、居合わせた8人(数は良く覚えていません)のグループの人たちと一緒にすぐに下りて捜索に協力した

  雪崩で埋まった場合、最初の
15分で探し出せば生きている可能性が高いと聞いていたので必死になって捜索した。30分を過ぎたらもう駄目かなと思うと空しい脱力感を感じた。当日は小雪で空は曇っており陰惨な感じで、雪崩がものすごく大規模であった印象があった。この岳人の記事にあるようにビーコンなど持ってなかったので、横に並んでゾンデ(あるいはそれに変わる細長い棒)を突き刺しながら捜索した記憶がる。この記事で一緒に捜索したグループは藤沢山岳会の人たちであること始めて知った。当時は今みたいに携帯電話が無い時で、この山岳会の人が持っていた無線で警察に連絡してくれた。

   最近は雪の状態を見ながら、剣が峰の下部をトラバースしたり荒砥沢の上部を滑ったりしているが、ここで雪崩に遭遇したのはよほど運が悪かったとしか思えない。岳人の記事で当事者の方がいろいろ調べた上で、ここで雪崩が起きたことが納得できないと書かれていたが本当にそうだと思う。

  


5.奥日光、白い道 (2003年1月)

  (湯元-刈込湖-金田峠-於呂倉山-西沢金山跡-川俣温泉)


     2003年の一月の連休の日に行った山スキーである。このコースは辻まことの画文集にある「白い道」と言うタイトルで書かれた一節にある。私は辻まことの画文集の大のファンである。辻まことが山スキーで行って雪崩に遭い九死に一生を得たいきさつが書かれたこの一節を読んで、このコースに惹かれて行って見た。辻まことが亡くなってから既に30年以上が経っている。辻まことがこのコースを通ったのは恐らく50〜60年くらい前であろう。

  当初は欲張っばった計画で、辻まことが「白い道」と言うタイ トルで書いている湯元、刈込湖、金田峠、於呂倶羅山、西沢金山跡、川俣温泉のルー トを行き、その日のうちに、日光沢温泉まで行き、翌日はやはり辻まことが 「雪山の旅」と言うタイトルで書いている日光沢温泉から根名草山、温泉岳、湯元の ルートをたどる予定だった。

   初日は自宅を朝早く出て湯本に駐車して出発した。湯本、小峠、刈込湖に至るルートは林間の気持ちの良いコース、気温もこの時期として高くのんびりと辺りを見回しながら進み、雪に覆われた刈込湖に到着。辻まことは刈込湖の景色を「子供のとき感嘆したチョコレートの箱の名画みたいだった」と記述している。ここから金田峠の登りは一部ラッセルがきつかった。初めは谷筋で傾斜が緩かったが、そのまま谷筋を行くと、途中から傾斜がきつくなり、シールではあがれそうもない。無理に上がろうとしてこけてしまう。右側の尾根筋の少し傾斜が緩そうな方へ移動して登った。最後の少しは壺足で上がり、やっとの事で鞍部の金田峠に着いたのが12時前。この登りは1時間半くらいと思っていたのが、2時間くらいかかった。

  正面には雪に覆われた会津の山々が一望できる
。シールをつけたまま金田峠から於呂倶羅山トラバース気味に上がった後、シールをはずして滑り出した。しかし、滑りができたのは上部だけであった。下りは間伐をしてない林、 藪の中を苦労して滑り降りると言う状態で顔に引っ掻き傷まで作って、やっとの思 いで西沢金山跡に辿りついた。途中ですぐ目の前をカモシカが通るのが見えた。

  この下りで思わぬ時間を食い西沢金山跡に付いたのは夕方になっていた。西沢金山跡はかって金山があったという名残はわずかに壊れた石垣で見える程度で、辻まことの「白い道」に書かれてあった分教場の跡など無かった。この後、辻まことが通った頃には無かった雪に覆われた山王林道を下っていった。途中で日没で真っ暗になったが、道は広く月明かりがあったので月明りを頼りに川俣温泉まで滑り降り、川俣温泉の旅館に宿泊した。

 翌日は日光沢から根名草山、温泉岳を経て湯元に行く気力も無くなり、おとなしく山 王林道を通って川俣温泉から山王峠、光徳牧場を経て湯元まで帰った。山王林道 は立派な舗装道路だが冬場は雪に覆われている。はじめは、スノーモービルが 通った跡があり、その上をシールで快適に進んだが、途中からそれも無くなりラッ セルが結構きつかった。 川俣温泉で朝食を食べ、準備して9時ごろ出発したが、光徳牧場に着いたのは午後になったが湯元には明るいうちにたどり着き、温泉に入ってから帰宅に付いた。

 

6. Kさん、Sさんとの山スキー行 (2003年3〜4月)

(1ヶ月間に偶然3回も山スキーでお目にかかり同行)

    山スキー愛好家にとって山スキーをやるのに良い時期とサイトは限られている。また、山スキーをやる人の数もそれほど多いとは思えない。バックカントリーが人気になっているなどと言っても山スキー人口は全国でせいぜい数千人くらいのものだろう。そのため土、日の好天気の良い日には、山スキーでどこかでお目にかかった人に再びお目にかかったりニアミスになることは良くある。山スキーの世界は狭いと痛感する

そうは言っても打ち合わせたり連絡した訳でも無いのに、1シーズンの1ヶ月以内に偶然に何度もお目にかかるのは珍しい。珍しく山スキー中に3度お目にかかり同行したのがKさんとSさんで、2003年の3月から4月にかけてであった。

1回目は、平標山から仙の倉山を経てシッケイ沢を下った3月21日。その日の早朝、元橋からヤカイ沢から右側の尾根を上がっている時この2人にお目にかかった。シッケイ沢を滑ると言うのでご一緒しましょうと平標山から尾根伝いに仙の倉山に上がり、シッケイ沢を滑った。下部の安全地帯で休憩後毛渡沢を滑った。群馬大ヒュッテのある沢の合流点で、つり橋をこわごわと渡った所で休憩した。その時、谷川岳から万太郎山を経て毛渡沢を滑ってきた吉田さんにお目にかかった。先を行かれた吉田さんに大分遅れて我々はのんびりと林道を滑り降りて国道に達した。国道沿いに駐車していた車に同乗させて頂き、出発点の元橋の駐車場に戻り、お礼を言って分かれた。

2回目は4月6日、天神平から谷川岳を目指してシールをつけてスキーで上がっている時、熊穴沢の小屋付近で休憩している時、この2人とばったり会った。谷川岳を上がり出来たら一の倉岳まで行き芝倉沢を滑る予定だとのことであった。同じルートを予定していたのでご一緒しましょうと前回に続いて同行した。この時はあまり天気が良くなく小雪がちらついていた。登っている人も少なく、少し重い新雪をラッセルの交代をしながら上って行った様に記憶している。
   肩の小屋に着いて天気の回復を待って一時間以上小屋で模様眺めをしたが、天気の回復が見込めず戻ることにした。やや重いが新雪のパウダースノーで見通しはそれほど良くなかったが天神尾根を滑った後熊穴沢を滑った。新雪がかなり積もっていたので、熊穴沢の真ん中を滑るのは少し躊躇を感じたが、お2人はやや重いパウダースノーの熊穴沢を果敢に滑り降りて行き、自分は後に続いた。この滑りは非常に快適ではあった。しかし、自分だけの単独行なら雪崩が怖いので熊穴沢の右側の林がある尾根筋を滑るだろうなと思った。滑り降りて少し行った安全地帯で休憩後、天神平の駐車場に戻りお2人と別れた。

3回目は4月13日、先週,芝倉沢を滑る予定であったのが悪天候で行けなかったのでもう一度行ってみようかと早朝天神平スキー場の大きな駐車場ビルに入り車を停めた。ところが、一台おいて隣に車を停めて山スキーの準備をしていたのが、Kさん、Sさんの2人連れであった。お2人も、先週悪天候で芝倉沢を滑れなかったのでもう一度来たとのことであった。
  こんな場所でまたまたお目にかかってびっくりしたが、またご一緒しましょうと同行した。その日は先週ほどでは無かったが、天気はそれほど良くなく上に上がるにつれガスが出てきた。そこで、肩の小屋に入り、一時間近く休憩をしながら天候の回復を待った。この時は外国人の2人ずれの他、3、4グループがいたように記憶している。しばらくするとガスが上がって来て他のグループも一の倉岳の方に行ったので我々も一の倉岳から芝倉沢を滑る事にした。時々ガスで周囲が見えなくなるときもあったが予定通り一の倉岳に行き芝倉沢を見下ろした。ここで、大休止を取った後、待望の芝倉沢の滑りを楽しんだ後、湯檜曽川沿いの緩斜面を滑り、一箇所沢の渡渉があったが無事に土合橋に戻り天神平の駐車場で分かれた。

その後、お2人とはお目にかかっていない。RSSAの吉田さんは翌年の3月に谷川岳から万太郎山を経て毛渡沢を滑るコースでこのお2人とお目にかかり同行されたとのことであった。なお、私はその翌年の2月末に一の倉岳の頂上で吉田さんとお目にかかり話をしたことがある。その時は吉田さんが芝倉沢を滑り降りるのを見てから私も芝倉沢を滑り降りた。この時は上から下までパウダースノーで途中ののどの個所もデブリが無く素晴らしい山スキーが楽しめた。

ところが,2006年の4月上旬に、吉田さんから笠岳穴毛沢の雪崩事故に遭われたお2人はKさんとSさんらしいとのメールが入った。びっくりして、新聞を見るとお名前も住所もお2人から聞いていたのと同じであった。結局お2人は雪崩事故で亡くなってしまった。お2人は大学のワンゲルの先輩と後輩であったと話されていたが、私よりずっと若い30代半ばから後半のこれからの方々である。家族の嘆きはいかばかりかと心中察するに余りある。その年の5月に双六岳への山スキーに行った途中、穴毛谷の現場に行きお2人の冥福を祈った。