蘭州、敦煌、西安の遺跡見学旅行
(2018年9月1日〜9日)

2年前には新疆、タクラカマン砂漠周辺のシルクロード沿いの遺跡の見学、3年前にはサマルカンドやブハラなどの中央アジアのシルクロードの遺跡の見学をした。特に新疆地区のクチャにあるキジル千仏洞の壁画は印象に残った。

   さらに、シルクロードの起点に近い東部の敦煌の莫高窟や西安(長安)の兵馬俑などを見学をしたいと思い、前と同じように、西遊旅行社が9月上旬にやっている「蘭州、敦煌、西安河西回廊を行く」9日間のツアーを申し込んだ。
   
   あなた任せのツアーで物足りない所があるが、短期間に効率的に多くの遺跡を見て回れる。今回も無事に旅行を楽しめたのは添乗員の仲里さん、現地のガイドの許さん、同行された皆さんのお陰である。感謝する。

  今回のツアー参加者は19名で女性が13名、男性が6名で、自分を含め高齢者が多かったが、会社の休暇を取って参加された若い女性グループもいた。皆さん旅慣れた方ばかりで、往きの成田からの飛行機の上海空港での乗り継ぎのトラブル、帰りの関西空港の台風による事故で名古屋空港への変更などのトラブルがあったが、参加者全員が楽しい旅行を楽しむことが出来た。

  前回の新疆タクラカマン砂漠の旅行でも感じたが、中国の内陸部での急速な発展が印象的であった。沿岸部の開発はほぼ飽和状態になったので、辺境であった内陸部に開発が進んでいるのだろう。

  地方都市でも林立する高層マンションと片道2、3車線の道路にあふれる自動車の群れ。人もいない砂漠地帯に延々と続く片道2車線の高速道路と新幹線。河西回廊一帯の風が強い地域に林立する風力発電機、沢山のソーラーパネルの群れと高圧送電線。
テーマパークとして整備された古い遺跡と大勢の観光客。
 
  今回もシルクロードと言うイメージとはかけ離れた発展する現代中国の実状を感ずる旅でもあった。
   

 9月1日() 晴れ
  (蘭州へ行くはずが、飛行機が大幅に遅れて上海空港での乗換に間に合わず上海空港で色々トラブル。結局、航空会社指定のホテルに泊まる)

    8時15分発の浅草行特急電車りょうもう号に乗り、北千住を経て京成線成田空港行アクセス特急で成田第2ターミナルに着き、11時半にツアー集合場所に行き、航空券を貰いツアーの説明を受けた。飛行機は13時50分発の予定だったが、上海空港が悪天候で遅れるとの発表があり、2時間遅れでようやく搭乗。搭乗した後も成田空港で1時間以上待機して3時間以上遅れて飛び立った。

  上海空港に到着したのは7時を少し過ぎていた。エコノミークラスでは座席は前の方だったので、早く出ることが出来た。70歳以下は指紋登録しなければならないとの事だが、自分は70歳以上なのでやらずに進んで入国手続きを終えた。

  蘭州行は7時35分発の予定。急げば間に合うだろう。少しくらいの時間なら乗り換え客を待っているだろうと、大勢の乗客がいる中を国内線乗り換え出発ゲートに向かった。

  最終ゲートの所で蘭州行の航空券を見せると、このチケットはキャンセルされた戻りなさいと指示された。戻って航空会社のカウンターに行ってチケットを見せて話を聞くと、飛行機はすでに出ており次の便は明朝の10時20分だと言われチケットにその便名を書いてくれた。

  そこで、航空会社指定の乗り換え用のホテルとそこへどう行ったら良いかを聞くべきであったが気が動転していたので聞かずに離れた。後から考えると航空会社の方で遅れたことを謝って無料の乗り換えホテルとそこへ行くバスなどの説明をするべきだと思うのだがやってくれなかった。

  成田からの8名の同行者はさらに後から降りたのでどこかにいるに違いないと広くて大勢の乗客がいる上海空港をうろうろしながら探した。幸い中国での電話が通ずるスマホを持っている若手女性2人組に出会った。現地の緊急連絡先に電話をした所、担当者が空港にやって来て会うことが出来た。

  その担当者が空港内で他の5人の同行者を探したが見つからず戻って来た。荷物も蘭州に行くはずだったのが間に合わず、荷物受け渡し場所に行かねばならないとの事。しかし、セキュリティーが厳しく荷物受け渡し場所に戻ることが出来ない。

  現地担当者がセキュリティー担当者に話を付けてくれて荷物受け渡し場所に行く扉を空けてもらったが、その先はセキュリティーが厳しくついて行けないとの事でそこで別れた。

  荷物受け渡し場所に行くと、我々3人分の荷物が置いてあった。荷物を受け取ったのは良いが明日の飛行機の座席確保は別の航空会社のカウンターで行い、今日のホテルとそこへ行くバスの手配は別のカウンターに行けと言われて指差す方向に行ったが良く分からない。

  空港内をうろうろした後、案内の人がいて乗り換え用のホテルなどを手配してくれるカウンターに連れて行ってくれた。そこには幸い日本語を話せる人がいて、ようやく航空会社指定の無料のホテルとそこに行くバスを確保出来た。

  しばらくして、バスの運転手がやって来てバス乗り場まで連れて行ってくれた。時刻は11時を過ぎていた。バスはさらに50分近く待って最後の客が来るのを待ってからホテルに向かった。

  ホテルに着いたのは12時過ぎ。明朝のバスは6時45分発だとの事で、急いでシャワーを浴びて眠りに着いた。

  後で聞いたが、他の同行者5人は後から降りて乗り換え便に間に合わないことを聞いたので、荷物受け渡し場所に行って荷物を受け取り、明朝の飛行機の予約をして乗り換え用ホテルにバスで向かったとの事であった。

 9月2日(日)晴れ 
 (上海から蘭州へ。蘭州で甘粛省博物館を見学後、バスで武威に向かった)

   朝6時に起床。ホテルで簡単な朝食を食べて、バスで上海空港に向かった。他の5人の同行者は7時発のバスに乗ったとの事で上海空港で再会。蘭州行きの飛行機は10時30分に出発し、蘭州に1時半に到着。空港には関西空港から来られた添乗員の仲里さんが迎えに来ていた。

   関西組は昨晩の飛行機に間に合って予定通り昨日中に蘭州に着き、既にバスで出発したとの事であった。

   2時に空港をバスで出て蘭州ラーメン店で、先ず蘭州ラーメンを食べた。蘭州ラーメンの名は聞いたことは有るがどんな味か知らなかった。辛味が比較的少なく食べやすい味であった。

蘭州ラーメン店で昼食                     甘粛省博物館                    展示されている漢時代の飛燕を踏む奔馬
    


  
 その後、甘粛省博物館で4時から一時間弱見学。ここには甘粛省で出土した遺物、化石が展示されていた。特に漢時代に作られた青銅製の飛燕を踏む奔馬の像が素晴らしい。2000年以上前に作られたとは思えない躍動感あふれた素晴らしい造りで感心した。シルクロードの先のフェルガナ地方の天を駆け巡ると言う馬の像で、シルクロードが開かれた当時を象徴している。

漢時代の騎馬像                      新石器時代の人面の坪                 大きなマンモスゾウの化石
    

 
 その他、新石器時代の人面が書かれている壺、漢時代の青銅製の四頭立ての軍馬車などを見学した後、大きな像(マンモス?)の化石を見たが、どれも良い物であった。

  その後、バスに乗
り一路西に向かい九時に武威に到着した。ホテルに着いて関西組と合流し、ホテルのレストランで夕食。10時過ぎに部屋に入り。シャワーを浴びながら靴下と下着を洗った。今日は12時前に就寝できた。

9 3() 晴れ
  (武威から張エキ、酒泉を経て嘉峪関へ。張エキで大佛寺で大きな涅槃佛を見学)
   
6時半に起床。から朝食。バスは8時にホテルを出て片道2車線の高速道路を西に進む。武威の市街地を出ると人家は少なくなり周りはブッシュと砂利拡がっている。南には祁連山脈が連なり北方はゴビ黄土高原の間の回廊状の細長い平地で、黄河の西にあるので河西回廊と言うようだ。

  途中、明代の万里の長城を高速道路が突っ切った所でバスは停まり、土で作られた万里の長城とのろし台の後を見学。風が強く結構寒い。


半砂漠地帯に片道2車線の高速道路    高速道路が突っ切る万里の長城の西はずれ     のろし台
      

  11時半に張エキに到着。暑くなってきた。まず、大佛寺(宏仁寺)を見学。大佛寺は西夏時代の11世紀に建立されたとの事で、内陣に大きな釈迦涅槃像が横たわっていた。この涅槃像は泥で作られているとの事だが、涅槃像であるが笑みを湛え眼を開けている。13世紀にはマルコポーロが張エキに一年間滞在しこの涅槃物を見ている。大佛寺の背後にあるお経を保存している蔵経殿などを見学した。このお寺には明代,清代の皇帝も寄進して補助したとの事である。


大佛寺                   涅槃佛                  木塔寺の塔
    



  その後、木塔寺の全九層の塔を見てから張エキの料理で昼食を取った。昼食後、二時にバスは出発。15分で七彩山入口に着いた。ここで広い園愛を専用のバスで回り時々下りて歩いて見学。七彩山は色々の色の鉱物を含んだ地層が並んでいる山が広い範囲で連続して壮観な景観を作り出していた。さすがに砂漠地帯で、大きな木は無く所々緑のブッシュがあるが、この緑も七彩山に色合いを添えていた。

七彩山を歩いて見学
    


  最後はバスを降りて七彩山を眺めながら歩いて入口に戻った。バスは4時45分に出発し、暗くなった8時過ぎに酒泉に到着した。

  酒泉の名の由来をガイドから聞いた。2000年前の漢の時代には河西回廊一帯は漢民族と匈奴が争奪を繰り返していたが、当時の将軍霍去病が匈奴の征伐を成し遂げた。その功績をたたえて漢の武帝がお酒を贈った。お酒の量は実際に戦って戦果を挙げた兵士たちに行き渡る量で無かったので、霍去病は酒を泉にそそいで希釈することで全兵士に行き渡るようにしようとした。ところが、不思議なことに泉からは酒がわき出て来てたと言う。この伝説を基にしてこの地を酒泉と命名したととのことである。

  酒泉を経て嘉峪関に暗くなった9時に到着。ホテルで遅い夕食後、部屋に入ってシャワーを浴びて靴下、下着を洗い、12時前に就寝。


 94日(火)晴れ
 
 (嘉峪関の関所跡を見学、その後、バスで高速道路を進み敦煌の手前であまり人が行かないと言う石窟、楡林窟を見学し敦煌に)
   朝、6時過ぎに起きて、7時から朝食。7時50分にバスは出発。わずかな距離で嘉峪関の関所跡を見学。嘉峪関は明代には西の外れとなり、西域の守りのため、城壁、関所がおかれたとの事。
  
   崩れかけた城壁、石畳はオリジナルだが、内部の多くの立派な建物は当時を模して、つい最近観光用に整備されたものでまるでテーマパークのようである。非常に広くて立派で大勢の中国人観光客で賑わっていた。出口周辺も土産物屋が一杯であった。

嘉峪関(内部は殆ど最近観光用に作られたもの。門には衛兵を模した門番が立っていた)
    


   一時間半ほど見学した後、バスは敦煌を目指した進んだ。途中人家は殆ど無くなりブッシュと砂利の砂漠地帯となり同じような景色が続いていた。

   河西回廊は高い山の間に挟まれているので風の通り道になっていて、ほどほどに強い風が年中吹いているので風力発電に最適だとの事である。おまけに人が住んでいない平地である。道路から少し離れた所にある風力発電の風車群と高圧送電線の群れが壮観である。大規模な太陽光発電のパネルも所々有り、大規模な発電地帯となっていた。

   途中の玉門市など都市周辺の道路ははポプラ並木の植林が続いては畑になってい
て、トウモロコシ、大豆、綿花などが植えられていた。その中を片道2車線御高速道路を進んだが、高速道路、一般道路、鉄道(新幹線)など凄い充実ぶりである。

   途中の中小都市も高層マンションが林立している。その代り道路沿いにある平屋建ての民家は壊されていてマンションに移住させられているようだ。

   都市周辺の農地を過ぎるとブッシュ、草原と砂利の平原が続いて何もない。所々、道路の両側にはタマリスクの木が生えていてピンクの花を付けていた。、羊、牛、ラクダなどの放牧が行われている。

   大きなダム(双頭ダム)があり、主として灌漑用に使われており、ダムで作られた湖の下には古代の遺跡があるとの事であった。

   一時半から途中のレストランで現地のラーメンで昼食。辛く無くて美味しかった。昼食を終え2時半にバスは出発。20分ほどであまり知られていないので観光客も少ない石窟、楡林窟に到着。林楡窟は主として西夏時代、元から宋時代のものが多いとの事であった。楡林靴も他の中国の石窟と同じように河岸の断崖に作られていた。

川沿いの断崖に作られた楡林窟             莫高窟に比べ人が少ない                  唐時代の崩れた城壁
    


   12,13,14,16,19,03の石窟を見学したが、当然のことながら内部は写真は禁止で、資料も無かったので記憶に乏しい。一時間ほど見学してバスは敦煌を目指して3時50分に出発。途中、唐時代の崩れた城壁を見学。この城壁が玉門閑であったと言う説もあるそうだ。

   7時に敦煌着。レストランで夕食後、8時半にはホテルに着いた。今日から3日間このホテルに宿泊なのでゆっくり出来る。ここでもシャワーを浴びながら靴下、下着を洗い、前日のものと合わせて乾かした。

   今晩はゆったり出来るので持参した本「中国王朝、4000年史」を見て付け焼刃の情報を得たが面白い。その後就寝。

95日(水)晴れ
 (敦厚の有名な石窟、莫高窟を見学、さらに、細かい砂の山、鳴沙山と月牙泉に行き砂の山に上がった。夕食は名物だと言う砂鍋料理を食べ、屋台の並ぶ沙州市場をめぐり土産物の干しブドウなどを買い物)
  
 朝6時半に起床。7時から朝食。このホテルは外国人観光客が多いせいか、生野菜のサラダ、パン、コーヒーなども出ていた、久しぶりに野菜のサラダとパンとコーヒーの朝食を取った。

  7時半に出発して直ぐに莫高窟に到着。昔テレビで見た莫高窟の景色と異なり、立派な観光施設が並んでいた。まず、初めに博物館で莫高窟紹介の大画面の映画(ジオラマ)見た。映画が終わってから莫高窟に移動した。

敦煌博物館                 川沿いの岸壁に沢山の石窟         莫高窟の標識
    

  大勢の中国人観光客で賑わっていた。これでも、最盛期に比べて少ない方だとの事で驚いた。日本語が出来る学芸員のガイドの案内で9時40分から見学を始めた。

  莫高窟はやはり河岸の断崖にほぼ1kmに渡って作られている石窟群で、全部で735窟、そのうち壁画が残っているのが490窟、公開されているのが68窟だとの事で、公開されているのも12コースに分かれて別々に見学しているいるとの事であった。


大勢の観光客が列を作っている有名な石窟   新しく作られた石窟の建物         沢山ある石窟をコース別に見学 
    


  莫高窟は北涼時代(4世紀)から元時代(12世紀)に作られた仏教遺跡で、一番古いものは272窟で、のちに修復されているものもあるとのことであった。

  莫高窟の外側は写真を撮れるが、石窟内部は写真禁止。懐中電灯に照らされた、菩薩像など仏画はどれも素晴らしいものだった。

  初めに96窟で唐代に作られた仏画。
  2番目は100窟で約1000年前の北涼時代に作られた壁画で仏像は比較的新しく作られたものだと言う。
  3番目は148窟で、大きな涅槃物で莫高窟では2番目に大きな涅槃物で、清の時代に修復されたとの事。最も大きな大仏は現在修復中でその石窟は閉鎖されている。
  4番目は202窟で唐代に作成されたもの。天井一面に千仏像が描かれていた。正面にある仏像は清代の物で新しい。
  5番目は237窟で前室と奥室の2層となっている。唐代に作られたが、吐番(チベット)でも見られるもの。やはり天井には千仏像が描かれていて、手前の像は新時代に作られたとの事。
  6番目は257窟で、大勢の人がいた。早期の北涼時代(4世紀)に作られた古い石窟で後期の元時代(12世紀)まで追加され、修復されている。天井の垂木は楡の木で作られている。正面の弥勒菩薩はわらと粘土で作られている。
  7番目が57窟で唐代に作られた。天井の仏画、釈迦像、菩薩像は煤で黒くなっていた。20世紀にロシア革命で逃げて来た人がここに住み着いてにたきをしたためだとのことであった。
  最後に16,17窟を見学。壁画は唐代のもので、西夏時代に最初は2層になっていた。仏像は清の時代のものだと言う。横の石窟は古文書、お経の収蔵庫で壁は埋められていたが、20世紀初頭ここに住み着いた道士が埋められた石窟の中からこれら貴重な文物を見つけて、欧米、日本の探検隊に安値で売り渡してしまった。

  その後清朝政府はその重要性に気づいて外国人に売り渡すことを禁止したが、時すでに遅しで多くの貴重な莫高窟の文物が外国に行った歴史がある。同じようなことがクチャの近くのキジル千仏洞でも見られた。

  幸い運び出すのは難しい壁画の多くは残ったが、壁画の表面の切り取って持ち出したものも有ったと言う。

  2時間弱の莫高窟の見学を終えた。観光客が大勢いてそちらの方が気になったが、やはり素晴らしい壁画の数々であった。

  その後、莫高窟博物館に行き、画家の平山郁夫の紹介と莫高窟での平山郁夫の写真、スケッチ、複製画の展示を見た。さらに、石窟内の壁画や仏像のコピーなどを見て広い園内を入り口までバスで戻って莫高窟見学を終了。今回の旅の目的の一つが終わった。

  1時20分から2時まで入口ににあるレストランで昼食。昼食後、敦煌市内に戻り敦煌市博物館に行き、1時間ちょっと見学したが、莫高窟の記憶が強いので何を見たか記憶が無い。

  3時半にバスに乗り白馬塔を見学。最初に仏教の経典をサンスクリット語から中国語に正確に翻訳した僧、クマラジュが乗っていた白馬が死んだので、その記念に立てた9層の土作りの塔でそれほど古いものでは無いようだ。
  
  4時過ぎにホテルに戻り1時間ほど休憩。休んでいる間に持参の本「中国王朝4000年史」の続きを読んだ。

  休憩後、5時15分にバスは出発し、30分もかからず鳴沙山入口に到着した。鳴沙山は細かい茶色の砂の山で、風が強い時の砂嵐で細かい砂が降り積もって堆積して出来た山
が連なっている。その砂の山の間のくぼ地は水をたたえた池になっていた。地下を通って来た雪解け水の地下水がここで出て泉となっていて月牙泉と名付けられている。

鳴沙山の入り口                       靴カバーを借りて砂の山を目指す           ラクダに乗って砂山を行く観光客
    


   この砂の山の近くまで入口からカートで移動した。砂山には大勢の人が一直線に並んで上っていた。ツアーのメンバーはラクダに乗って砂山の途中まで行くグループと砂の山に登るグループに分かれた。自由行動は1時間半。砂山を登るグループは靴に砂が入らないようオレンジ色の靴カバーを借りて砂の中を歩いた。

   自分も砂山を登って行った、初めは砂山の中に梯子が付いていて登り易かったが、途中ではしごが無くなった。砂が軟らかくて一歩ごとに足が砂の中に入り込みずり落ちて来る。ちょうど深雪の中を歩くようなもので歩き辛い上に疲れる。ここでツアーのグループの数名は上がるのを辞めた。

   距離は短いのでゆっくりと砂山を上がり切った。。左下には月牙泉が見え上からの眺めは素晴らしい。反対側はさらに一面砂の谷を隔てて砂の山が拡がっていた。砂山の頂上に上がって来たツアーの同行者の皆さんとしばらく眺望を楽しんだ後、月牙泉の方に下った。

鳴沙山の砂山を上がり切って               反対側にはさらに高い砂の山             砂山の上から見る月牙泉

    


   7時50分に鳴沙山入り口に戻り、バスに乗って屋台や土産物屋が並ぶ沙州市場に向かった。奥にあるレストランで名物だと言う砂鍋料理を食べた。砂鍋と言っても土鍋で、ヒツジ肉や牛肉を野菜と一緒にだし汁で煮込んだもので油っぽく無く美味しかった。

   夕食後、沙州市場の土産物屋で買い物の自由行動。乾しブドウ、乾ししアンズ、乾しクコの実などを売っている屋台が多かった。自分はこの通りにあったスーパーマーケットに行き、先ず野菜売り場を覗いた。野菜は日本とほぼ同じものが置いてあったが、種類は少ない。敦煌は中国沿岸部から遠く離れた北西部の街で、人口もそれほど多く無いので、野菜も少ないのも当然だろう。

    ここで、土産物にする干しブドウ、乾しアンズ、乾したクコの菓子とビールを買った。10時前にバスでホテルに戻った。明日もこのホテルに連泊なのでゆっくり出来る。シャワーを浴びた後、本の続きを読んで就寝。

6日(木)晴れ  
  (敦煌郊外の玉門閑と陽関を見学)

   敦煌は古代中国では西のはずれで、さらに西はタクラカマン砂漠の西域の地であった。そこで、敦煌から西に進む北西側に玉門閑と言う関所があり、それから先はトルファンに続き、天山南路になる。一方、南西側に陽関と言う関所があり、それから先は楼蘭からホータンに続く西域南道となる。これらの関所で人の出入りを厳重に制限していた。

   唐代の王維が詠んだ漢詩に「西のかた陽関を出ずれば故人無からん」 と言う一節がある。高校時代の漢文の授業で習った記憶がある。

   朝6時に起床。7時から朝食。バスは8時に出発。敦煌の市街地を出るとすぐに草木が生えていない砂漠地帯が広がっていた。風が強くやや寒い。

   9時40分に玉門関に到着。遺跡の入り口には最近整備された博物館があった。関所跡の建造物には細い入口があったが、土壁などは崩れていた。さらにバスで広い玉門関の内部を見学。

玉門閑の関所の入り口                    関所の出口方面                        往時の兵士の駐屯地、食料倉庫の跡
    


往時の兵士の駐屯地、食料倉庫跡、万里の長城の西のはずれの後などを見学した。いずれも土壁は崩れていて半分砂に埋もれていた。見学後、敦煌に戻り農家レストランで昼食を取った後、陽関に向かった。

玉門関ののろし台                      玉門関に続く万里の長城                  農家のぶどう棚の下で昼食 
     


    現存している陽関周辺の遺跡は崩れかけたのろし台だけであった。最近作られた種々の施設はすべて往時の陽関の関所、兵士の駐屯地などを模した建物群で、観光用に作られたものだとのこと。 実際の陽関は丘の反対側の下にある泉に沿った低地にあったと言う。

    3時半にバスは陽関を出発し4時過ぎにホテルに着いた。この後、夜光杯を作る工場を見学し説明を受けた。夜光杯は祁連山脈で取れた鉄分の多い鉱石を原料に作られた杯で、磁石に着くし光をかざすと半透明状でになるとの事であった。材質にもよるが薄いものほど高価だと言う。お土産に安いワイングラス一つを購入した。

   5時にホテルに戻り、7時から夕食。明日は敦煌を朝出発の列車に24時間乗る夜行列車で西安に向かうので荷物を整理し、早めに就寝。



  7日(金)晴れ
  (敦煌から列車に24時間乗り西安まで
   朝6時に起床。7時に朝食。バスはホテルを8時に出て敦煌駅に向かった。9時20分発の西安行の列車に乗った。乗ったのは軟臥車4人定員のコンパートメントとなっていて、男性4人の同行者が入った。同行者同士で会話が進んだ。

敦煌駅                              河西回廊を行く夜行列車に乗る           終点の西安駅
    

    最初は延々と同じような景色が続いた。遠くに上だけ雪を被った祁連山脈が見えた。間隔が離れているが所々に町があり、列車は停まった。昼食、夕食は隣の食堂車で食べたが、あまり食欲がわかない。

    夜10時過ぎに同行者同士の話を辞めて上のベッドで就寝。あまり寝付かれずうつらうつらしている間に夜が明けて来た。


8日(土)晴れ
 (西安で陝西省博物館、兵馬俑を見学)
  
敦煌初の夜行列車は西安に朝の9時20分に到着。在来線の各駅停車(と言っても途中の駅は非常に少ない)で24時間近くかかった。西安駅は非常に大勢の人で混雑していた。

  西安だけで人口800万、周辺を合わせると3000万近くあると言う。大学などの高等教育機関が多数あり、郊外には多くの工業施設がある内陸部の大都市だ。

  西安はかっては長安と呼ばれ、3000年以上前の周の時代から唐が滅亡する1000年以上前まで約2000年間中国の都として栄えた。長安はシルクロードの起点または終点となる所で、唐の時代には国際都市として栄え人口が100万近くあったと言う。

  西安駅でバスに乗り9時40分出発。旧市街を囲んでいる背の高い城壁を通り過ぎた。この城壁は明代に作られたもので、全長10q以上あり、毎年城壁の上を走るマラソン大会が催されているとの事であった。

  城壁を通り抜け、先ず陝西省歴史博物館に向かった。この博物館は先史時代から清朝までの歴史的文物をほぼ年代順に展示されていた。特に先史時代の原人や商(殷)、周時代の出土品は興味深かった。3000年以上前にこれだけ精巧なものを作っていた。また、歴史の授業で習った黄河文明も一つだけで無く、数か所で別々に発展したことも知った。

陝西省歴史博物館               商(殷)時代の青銅の鼎           秦時代の武器と壺
    


  司馬遷が書いた歴史書「史記」に書かれていた夏や殷は伝説で実在しなったと言う説もあったそうだが、1970年以降これらの多数の出土品が出て来たことでその実在が確認されたとか。

秦の膝をつく武将像             唐三彩のラクダ              大雁塔と玄奘三蔵の像
    


  午前中の博物館見学を終えて、中国式の精進料理のレストラン、素食館で昼食を取った。この素食館は日本人の僧侶が開業したそうだが、料理に肉を使わっていない。大豆たんぱくをうまく使ってソーセージセー風にしていた。中国料理であるが普通の中国料理と比べて薄味で油が少ない。ヘルシーな食事が出来るという事で人気だそうで、レストランは広く大勢の中国人客で賑わっていた。

  昼食の後は、市内にある大観寺に向かい、大雁塔を見学した。大観寺は唐の時代の玄奘三蔵法師ゆかりの寺で、玄奘三蔵が持ち帰った経典などを収蔵している。当時のもので現存するのは塔だけである。残りの施設、仏像はすべて最近建てられたもので、現在は観光地となっている。このお寺の再建に奔走寄与されたお坊さんの署を見た。色々の書体で書かれた書をお寺再建、維持のために売っていた。

  その後、バスに乗り郊外に出て兵馬俑に向かった。今回のツアーの目的が敦煌の莫高窟と兵馬俑だったので興味を持って見た。兵馬俑は2200年前に秦の始皇帝が死後にも軍を支配するために、自分の陵墓の離れた横に6000体以上の兵士、軍馬の土器製の像が並んでいる広い土中の抗を作らせた物だと言う。

  長い間、兵馬俑は土中に埋もれていたが、1974年にこの辺の農民の一人が井戸を掘るために土を掘っている最中に偶然見つけたものだと言う。その後、発掘が組織的に行われて、最初の1号抗の他、2,3号抗も見つけられて、現在も発掘調査中だとの事。

  兵馬俑周辺は観光用に整備されていて、沢山の土産物屋の間を通って入口に向かった。大勢の観光客で賑わっていた。入場後は、カートで移動し兵馬俑1号抗の前に出た。。

兵馬俑入口                  カートに乗って移動             兵馬俑一号抗入口
    
 
  兵馬俑1号抗は縦230m、横62mの壮大なもので発掘した抗の周りを体育館のような建物で覆っていた。その建物の中に入り、周囲を巡って兵馬俑を見学した。兵馬俑の俑と言うのは人や動物を模った人形を意味する。

兵馬俑一号抗の内部             それぞれ顔の表情、形が異なる       後ろは未だ発掘修復中
    

  ここには6000体に及ぶ等身大の兵士の像が並んでいた。写真やテレビで見た兵馬俑の実物。兵士の顔の表情もすべて異なっており、大勢の職人が此の作成に携わっていたようだ。2200年前にすでにこのような素晴らしいものが作られたのは驚きである。

  実際に並んでいるのはその一部だそうで、前から順に発掘した兵士の像を修復して並べている。所々に軍馬と騎馬兵士の像もある。後ろの方は未だ発掘中だとの事。発掘現場がそのまま展示されているのは素晴らしい。

女性兵士の像(修復中)            兵馬俑3号抗                修復中の物が殆ど
     


  1号抗の後は、やや小ぶりで、現在発掘中だと言う3号抗、2号抗を見た。やはり、周りを建物で覆ってあり、一部の兵馬俑が展示されていた。

兵馬俑2号抗                 馬と兵士                 将軍の顔 
    

 
  最後に、兵馬俑博物館を見学した。ここには、始皇帝の陵墓から出土した馬車や軍馬で引く戦車の青銅像が展示されていたが、これも素晴らしい物であった。

兵馬俑博物館                始皇帝の陵墓から出土した4頭立ての戦車と馬車
    
   兵馬俑見学を終えて出口を出て、沢山の土産物屋の間を通り抜けてバスに戻った。これでこのツアーで見るものはすべて終わった。

  市内に戻り、レストランで西安名物だと言う小さな餃子13種類の夕食を取った。餃子と言うイメージとは異なっていたがいずれも美味しくやや食べ過ぎた。ホテルに戻り明日帰国する準備をして就寝。


9日(日)晴れ
 (西安空港から上海空港を経て成田空港に戻る)

  朝4時に起きて5時にホテルを出発。中国東方航空の飛行機は西安空港をほぼ定刻通りの7時30分に出て上海空港に向かった。上海空港で関西空港に向かうグループは関西空港が台風による事故で使えないので名古屋空港に向かう便に乗り換えた。関西発の同行者と別れ、成田行の飛行機に乗り3時過ぎに成田着。
 
  色々あったが、今回も無事に楽しく行けて良かった。