新疆シルクロード遺跡見学旅行

古代の文明、遺跡に興味があり、これまで古代文明の遺跡をいくつか訪れた。昨年は、中央アジアのウズベキスタンにあるサマルカンド,ブハラなどのシルクロード沿の遺跡見学をしたので、今回は中国側の新疆にあるタクラカマン砂漠周辺の遺跡の見学をすることにした。

    中学か高校の時にスウェン ヘディンが書いた「さまよえる湖」と言う本を読んだ記憶がある。また、1980年代にはNHKのシルクロードの特集番組を興味を持って見ていた。トルファン、ホータン、クチャ、ニヤ、ロプノール、タクラカマン砂漠などの遺跡を一度は訪れて見たいと思っていた。

  これらの地域は単独で行くことは難しいので、西遊旅行社が9月中下旬にやっている「新疆シルクロードの旅 12日間」を申し込んだ。あなた任せのツアーで物足りない所があるが、広いタクラカマン砂漠周辺を短期間に多くの遺跡を見て回れる。今回も無事に旅行を楽しめたのは添乗員の上野さん、現地のガイドの胡さん、同行された皆さんのお陰である。感謝する。

  今回のツアー参加者は17名で女性が9名、男性が8名で全員が単独で参加されていた。自分を含め退職した人が大部分であったが、皆さん旅慣れた方ばかりであった。特に、Aさん、Tさんの話術(?)で皆の笑いを誘いながらわきあいあいとした雰囲気を作り出して頂き、参加者全員が楽しい旅行を楽しむことが出来た。風邪を引いたうえ、忙しく疲れた旅行であったが面白かった。

  新疆のタクラカマン砂漠周辺の遺跡がある都市は予想以上に近代化されで次々と中高層ビルや、近代的な商店街、高速道路、アパート群、工場などが建っており、中国の西部大開発の成果を見る思いがしたが、バブルでは無いかと言う気もした。主な遺跡は世界遺産として登録されたとの事で観光地として整備されて、中国人観光客が大勢見学していたのも印象的であった。

   本やテレビで見た古いシルクロードのイメージとはかけ離れていたが、遺跡の他、この地域の実情、発展を目にすることが出来たのは良かった。


   
 9月13日() 晴れ
  (ウルムチへ)
    9時15分発の浅草行特急電車りょうもう号に乗り、浅草から都営浅草線、京浜急行線を経由して羽田空港国際線乗り場に到着。12時前にツアー集合場所に行き、航空券を貰いツアーの説明を受けた。飛行機は13時55分発。

    先ず北京に行った。北京で出入国手続きを経た後、中国国内線に乗り換える。北京空港は広くて分かりづらいしSecurity Checkが厳しく時間がかかる。関西空港から来た参加者と合流。新疆の省都であるウルムチ行の飛行機に乗り換えて20時頃飛行機は出発。ウルムチ空港まで4時間以上かかり、0時半頃に到着(日本との時差は1時間)。

  入国手続きを終え空港を出たのは真夜中の1時を過ぎていた。現地ガイドの出迎えを受けてバスに乗り本日の宿泊のホテルに向った。ホテルにチェックイン後、シャワーを浴びてベッドに入った。なかなか眠れない。

 9月14日(水)晴れ 
 (ウルムチからトルファンへ。べゼクリフ千仏洞、高昌古城、火炎山、アスタナ古墳を見学

   朝6時に目覚めて、7時半に起床。8時から朝食。バスでホテルを9時5分に出てトルファンに向かった。ウルムチ近郊の道路沿いは木が生えており畑もあったが、それから先はブッシュが生えた荒れ地が続いていた。道路は走り易い。途中で東洋一といわれる風力発電所があり、多数の風力発電風車の塔が立っていた。

   トルファンに12時過ぎに到着。予想以上に町は大きく緑が豊かであった。古いレンガ、土壁作りの建物を壊して、近代的なコンクリート製の新しい建物を次々と建築中であった。陽射しは強く日向では38度以上になっていて暑いが、湿度が低いので、それほど暑さが気にならない。

多数の風力発電施設が並んでいる           トルファンに入り昼食を取るためレストランへ     トルファン市内の道路。緑が多い
    

  
   トルファンは西域の東端にあり、2000年以上前にはアルタイ系、トルコ系の人が住んでおり,、当時は車師前国という都市国家があったが、強国だった漢や蒙古系の匈奴の間での難しい存在を余儀なくされたようである。漢が強大になった時に多くの兵が派遣され屯田兵となって以来漢民族が大勢住むようになった。

   5世紀から9世紀にかけては定住した漢族系の高昌国がトルファン一帯を支配した。6世紀にインドに仏典を求めて旅した玄奘三蔵法師も途中高昌国に滞在している。

  その後は、トルコ系、ペルシア系、モンゴル系、漢族などの人が支配、攻防を繰り返して民族の融合が進んだ様である。

   車師前国の都で、後に漢や唐の西域支配の拠点となったのが交河城で、高昌国の都が高昌城であった。高昌古城は町の東南側にあり、交河古城は町の西側の2本の川が流れている間の中州の高台にあった。いずれも、かなり大きな町であったと思われるが、今は崩れ掛けた土壁、土の塔などが残るのみであった。

   12時20分からレストランでウイグル料理の昼食を取った後、べゼクリフ千仏洞に向かった。途中の道路からは赤茶色で特徴的な襞が見える火炎山が目の前に見えた。一木一草も無い赤い山肌で、周囲は暑く火炎山と言う山名に納得した。

火炎山の近くの道路を通る                 火炎山                           火炎山付近は赤茶色の山が続く
    

  べゼクリフ千仏洞は6世紀から12世紀にかけて、主として仏教を手厚く保護した高昌国時代に作られた。川からせり上がっている山の中腹に掘られており、洞の内部は美しい仏画の壁画で彩られ、経典、文書などがあったとの事である。

   しかし、人の手や自然による破壊、また、20世紀初頭の探検隊、調査隊による壁画の切り出しなどによってかなり壊された。今はきちんとした保護がなされ、観光地となって整備されており、大勢の中国人観光客で賑わっていた。

   公開されていた16窟、17窟、20窟、27窟、31窟、37窟、39窟を見学。壁画は剥離したり、目や顔が壊されていたが、残っている部分は鮮やかな青や緑色が印象的であった。日光が当たらず、鉱物質の顔料を使っているので退色すること無く残っているとの事であった。

    
べゼクリフ千仏洞                                           
         
    

    続いて、吐峪溝に向かった。ここにも山の中腹に仏教遺跡の千仏洞があるとの事だったが、高い上にあるし壁画も少ないので行かず、下にある土壁作りの典型的なウイグル人の集落を見学。外は暑かったが、部屋の中は結構涼しい。ここで、道際で売っていた干しブドウと干しウリが非常に易かったったので買って食べて見たが、味の方は余り良く無い。

吐峪溝のウイグル族の集落                              吐峪溝のモスク
   


    ついで高昌古城に向かった。ここは14世紀には廃墟となったとの事であった。2014年に世界遺産に指定されたそうで、整備されていた。かってはロバが引いた車で広い古城内をを見学したそうだが、今は電気自動車に乗って見学。広い古城内には土壁の崩れかけた王城、寺院、仏塔などが点在していた。

高昌古城
    
 

    


    次に、アスタナ古墳群を見学、ここは高昌国時代の墓地で、多くの遺体が朽ちる事無くミーラとなって、遺品とともに残っていて今も発掘中であった。乾燥地帯にあるため非常に保存状態が良い。公開されている3か所を見学。地下に向かう通路を下ると墓所があり、ミーラや、壁画が見られた。

アスタナ古墳                        お墓を掘った後の砂山                 お墓への通路
    

    古墳群を見学後の帰途、火炎山に再び立ち寄りトルファンに戻った。夕食はウイグル族の農家レストランでウイグル料理を食べ、素朴な民族舞踊を見てホテルに戻った。

915() 晴れ
  (交河古城を見学後、トルファンからカシュガル行の夜行列車に乗る。)
   
時半に起床。から朝食。バスは10時にホテルを出てまず、道路の両側にある背の高いブドウ棚が続いている通りを歩いた。ほとんど収穫が終わったようで、残ったブドウの房はそのまま干しブドウのようになっていた。

       
トルファン市内のブドウ棚の通り
        
 

  その後、交河古城に向かい駐車場から電動カートに乗り入り口に進んだ。ここも整備されていて大勢の中国人観光客で賑わっていた。交河古城は前2世紀から11世紀にかけて最大8000人くらいが住んでいたとの事であった。2つの川の間の中州の高い台地にある町で
、外敵に対する防御に適している。

交河古城
     


    

 
   2時間かけて歩いて広い古城内を見学。崩れかけた土壁、仏教遺跡、仏塔跡、宮殿跡、住居跡が広い台地の上に点在していた。人々は半地下式の掘った穴で暮らしていたようだが、暑さ寒さに対応している。さらに、当時使ったかと思われる井戸の跡が何箇所かに見られた。

   1時半に見学を終えて町に戻り、2時20分からレストランで昼食後、トルファン駅に向かった。待合室に入るにも検問があった。結構大勢の人が待っていた。
我々はトルファンを16時30分発のカシュガル行の夜行列車に乗った。この列車は新疆ウイグル自治区内を走る南疆鉄道で路線はウルムチからトルファン、コルラ、クチャ、アクスを経てカシュガルまで行く。線路はさらに、カシュガルからホータンまで続いているとの事。

  トルファンでの見学はこれで終わりだが、トルファン近郊にある標高が海面下ー150mの所にある湖(アイディン湖)は行って見たかったが、残念ながら行けない。

   
   カシュガル行の夜行列車に乗車
    

   座席は4人が一つのコンパートメントに入る軟臥席(寝台車)で2段ベットとなっている。くじ引きで座席を決め、同じコンパートメント内の4人で話が弾んだ。その後隣の食堂車に向かい、弁当の食事をとった。

   暗くなったコルラで20分以上停車している間に降りて星空を眺めたが、満月が明るくて残念ながら天の川は見えない。その後は上段のベッドで横になったが、風邪を引いたためなかなか寝付けない。うつらうつらしている間に何度か列車は停車し、夜が明けだして来た。、食堂車で朝食を取った。

 916日(金)晴れ
 
 (カシュガル、香妃墓を見学)
   
列車は11時45分にカシュガル駅に着いた。カシュガルの町は人口が100万人近くあり、周辺の地区も加えると450万人に達すると言う。2000年以上前からシルクロードの交通の要所として栄えてきた。

   現在も中国の最西端の要所である。7年前にチベットのラサからカシュガルまでのツアーで寄った事があるが、その時は古い建物を取り壊し中のものが多かった様に記憶くしている。今回は前回とは全く印象が異なり、近代的な都市となり沢山の高層ビルが建っていた。さらにまだ建築ラッシュが続いているように見えた。

   駅からバスに乗り、香妃墓に向かう。ここは17世紀に造られたイスラムの廟で、ウイグル風の建物、いくつかのモスクが建っていた。当時この地を支配したウイグル人の王、 ホージャ一1族5代のお墓で、王族の娘で清の皇帝に嫁いだ妃が花の良い匂いがしたので香妃と呼ばれたとか。


香妃墓                               壁面を飾るタイル
    


    


   その後、ホテルに行ってチェックイン。同行者はカシュガル市内の観光に出掛けたが、風邪を引いていて疲れたので市内観光に行かずホテルで休むことにした。
食欲も出ず、夕食は持参のカロリーメイト、アミノバイタルと水で澄ましてベッドで横になっていた。

917日(土)晴れ
 (カラクリ湖まで往復)
  
 朝7時に起床。から朝食。食事はすべてウイグル料理か中華料理で、コーヒーや生野菜が全く無いのでそろそろコーヒーが飲みたくなるが仕方が無い。

  8時45分に大型バスで出発。今日はパミール高原にあるカラクリ湖まで往復。カラクリ湖は標高3600mの所にあり、琵琶湖より大きな湖だとの事で、湖周辺は牧草が生えていて放牧地帯でキルギス人が住んでいる。

  初めは町中の舗装道路を快適に進んだが、しばらく行くと道路工事中でダートロードが続いた。13時30分に検問所を通過。結構厳しいチェックをしていた。沢の水は氷河から溶けだして来たのだろうか?灰色に濁っていた。道路工事が続いていて時間がかかる。

  おまけにバスは馬力不足のようで急坂を一気に上がることが出来ず、下がってから勢いを付けて上がるなどしたため、予想以上に時間がかかった。道路沿いからは時々雪を被った高峰が見え隠れした。


  
カラクリ湖を目指して行く                    雪を被った高峰が谷間から見える
    


  途中の湖沿いの見晴しの良い所でバスは止まり休憩。屋台の土産物物売りが何軒かあった。ここで同行者の一人がパスポートとお金の入ったポシェットを置き忘れてしまった。バスに乗ってしばらく行ってから気づいて、添乗員が近くにいたバイクの後ろに乗せてもらい引き返して無事に回収することが出来て事無きを得た。やはり、地方の少数民族の人は純朴で正直な人が多いと感心した。   


カラクリ湖
  


  昼食はかなり遅くなってキルギス人の民家(ゲル)の中でキルギス料理を取った。ウイグル料理とキルギス料理の違いはよく分からないが、風邪を引いているせいもあり食欲が無く少ししか食べられなかった。

 
カラクリ湖畔にあるキルギス人のゲルで昼食              雪を被った高峰
  


  本日の目的地。カラクリ湖の湖畔に着いたのは5時半となっていた
。遠くには雪を被った高峰が見える。しばらく周囲の景色を眺めた後、6時過ぎにバスは帰途に付いた。

   ダート道路が多くスピードを出せない。検問所を通過した後、周囲は暗くなってきた。途中で道路工事中で通行止めとなり、2時間近く待たざるを得なかった。
11時過ぎに道路は再開されたが、暗くなったためバスはゆっくりと進んだ。

   真夜中の2時、カシュガル市内まで約10kmと言う所でバスは突然停止した。新疆ウイグル自治区では規則によりバスは夜中の2時から5時までは運行停止だとの事。

    バスの代わりに、添乗員が呼んだタクシー5台に分乗してホテルに着いたのは夜中の3時を過ぎていた。夜食としてカップラーメンなどが支給されたが、とても食べる気にならず、簡単にシャワーを浴びてベッドに横になったのは4時近かった。

18日(日)晴れ  
  (大バザールを見学、買い物後、カシュガルからメルケトへ)

   朝7時に目が覚めた。8時前に起床して8時20分に朝食。ホテルをバスで10時に出発。10分くらい行ったバザールで見学がてら買い物。

  前回7年前もカシュガルのバザールを訪れたはずであるが様変わりしたようである。しかし、人、品物、雰囲気は前と変わらない
。ここでドライフルーツとナッツを買った。

  
カシュガルのバザール
    


   カシュガルから最近出来た片道2車線の高速道路を通り、メルケトに向かった。道路沿いは意外と緑が多く、綿花やナツメなどの栽培がおこなわれていた。町はずれで検問所を通過。町から遠くなるとさすが砂漠地帯となり、アシやタマリスクが生えていた。


片道2車線の高速道路を行く             検問所を通る                   中高層アパートが並んだメルケトの町
    


   途中、ヤルカンド川の橋を渡った。スウェン ヘディンは20世紀初頭、ヤルカンド川をを船で下りタリム川を経て楼蘭まで行ったとの事であるが、船で下れるほどの水量はあるようには見えない。それでも、かなりの水量が流れていた。

   ヤルカンド川はカラコルム山脈の高峰の雪解け水を集めて1000qを流れてタリム河に合流する。同じように崑崙山脈の高峰の雪解け水が水源となってタクラカマン砂漠を流れるアクス川、ホータン川がタリム川に合流する。

   タクラカマン砂漠は水が乏しく人が住めない所だと思っていたが、周囲の高峰の雪解け水を集めていて以外に水が豊富な所だと感じた。これらの川は思っていた以上に水量が多く川沿いの町も人口が多いのは驚きであった。

   2時過ぎにメルケトの町に到着。高層アパート群が並んでいて緑が多かった。人口は8〜10万人との事。建設ラッシュが続いているようで、背の高いクレーンの塔が数か所見られた。

   14時半からメルケト郊外の農家のレストランでウイグル料理の昼食。食後に食べたスイカとハミ瓜がおいしかった。食後は民族楽器の演奏、民族舞踊(ドウラカム)を見学。タンバリンと三味線に似た弦楽器、さらにはじめて見た4角形の弦楽器の演奏。同行のA氏がウイグル人の演奏に和して歌ったり踊ったりしたのが印象的であった。


ウイグルの民族楽器の演奏                            ウイグルの民族舞踊 (ドウラカム)
  


   その後市内のバザールを見学後ホテルの戻り、7時半からホテルで夕食。夕食後、同行者の皆さんととしばらく歓談。久しぶりに夕食後がゆったり出来た。


メルケトのバザール                    バザールで売られていたスイカ。安い!       ハミウリ(?)
    



   部屋に戻ってしばらく本を読んでシャワーを浴びて就寝。エアコンのスイッチは入っているのに効かず、部屋が暑くて寝汗をかいて眠れない。風邪がぶり返したようだ。


  19日(月)晴れ
  (メルケトからホータンまで
   暑くてよく眠れない。時々寝ては目を覚ましを繰り返して6時半に目が覚めた。7時半に起床して8時30分から朝食。ホテルをバスで9時30分に出発。今日はヤルカンドを経てホータンまで西域南道沿いに進む。

  ヤルカンドまでは立派な高速道路が通じているが少し遠回りになる。旧来の国道沿いにはウイグルの農家があり、ポプラ並木など見どころもあるのでやや時間がかかるが、国道を通ってヤルカンドに向かった。

  途中のウイグル族の農家の壁には農民が書いた絵が描かれていて、停車して見学。道路の周りのポプラ並木が美しい。さらにしばらく行くと道路は閉鎖されている。道路工事中でこれから先の通行は出来ないとの事で、仕方無く元のメルケトまで引き返した。


   ウイグル人農家の壁に描かれた農民画                         ポプラ並木の通り
  


 
  往復2時間半かかってメルケトまで戻り高速道路に入った。片道2車線の高速道路は早い。道路の周囲は緑が多く畑が続いていた。ヤルカンド川の水を灌漑に利用しているのだろう。

  1時15分にヤルカンド着。ヤルカンド川の橋を渡った。水量はそれほど多いように見えなかったが、道路の周辺は緑が多く畑が拡がっていた。西域南道沿いの道路を通り2時10分に葉城に到着。葉城は人口45万人ほどでだそうだが、市内は車で渋滞していた。


ヤルカンド川(水量が少ない)                   砂漠地帯で大規模に植林
  


  2時半から3時半まで中華料理店で昼食。4時45分バスは出発。途中で検問所があり車が長い行列を作っていた。検問所を通過するだけで25分かかった。

   砂漠の中に突然町が現れた。15年前に作られた農業がメインな町だとの事。建設中の建物も多かった。水の供給は大丈夫だろうかなど考えてしまう。さらに道路を進むと遠方は霞んで良く見えない。細かい砂埃が風で巻き上がっているのだろうか。


建設中の新しい町                        黒玉河を過ぎてホータンへ
 


   ホータンに暗くなった9時に到着。ホテルで9時半から夕食。食後、玉の加工、販売をやっている工房に出掛けた人たちもいたが、12時を過ぎていたとの事であった。自分は部屋に戻りシャワーを浴びて床に就いたのは11時を過ぎていた。



 920日(火)晴れ
 (ホータンで、マリクワット古城を見学、白玉河に立ち寄った後、ホータン博物館を見学。その後ニヤへ)
   7時に起床して8時から朝食。9時に出発。ホータンは崑崙山脈の高峰の雪解け水から流れて来る白玉河と黒玉河の間にあるオアシス都市で、年間降雨量は少ないのに水は豊富で2000年以上前からウテン国として栄えた。ホータンの特産品は白玉河で採れる玉、絹織物、絨毯の3つで、特に玉が有名である。人口は20〜25万人で大部分がウイグル人だそうだが、急激に発展しているとのことだった。

  バスはホータン郊外のマリクワット古城遺跡に向かった。ウイグル人の集落を通って古城入口の駐車場に着いた。集落の住人のウイグル人が運転する電動3輪車に乗り古城遺跡に向かった。マリクワット古城はウテン国の都城の遺跡で10世紀には破壊放置されたとのことであった。広い敷地内には崩れた土壁が点在しており、砂の上には陶器の破片が散らばっていた。古城の端には白玉河が流れていた。


電動3輪車に乗って古城遺跡に       マリクワット古城遺跡で
  


マリクワット古城遺跡
    


  電動3輪車に乗って入口まで戻った後、白玉河の岸辺で石探し。川辺には砂利を掘って積み上げられた砂山が見られた。もちろん価値のある玉は無いが、きれいな石が多い。3,4個小さくてきれいな石をお土産に拾った。


       白玉河の河岸で石を探す             白玉河は水量豊富だった
        


  市内に戻って、ホータン博物館を見学。ホータン近くの遺跡、お墓で見つかった遺品、ミーラが展示されていた。石器時代、青銅器時代には既にこの地に人がいたようで、12,3世紀までのものが見られた。


    ホータン博物館                 博物館の正面にある約2tの大きな玉
       

  1時10分からホテルのレストランでで昼食。うどんが日本のものと似ていてスープも薄味で食べやすかった。

  2時にバスはニヤに向かって出発。さすがに水が豊富なホータン地区で道路沿いに緑の並木が続いていた。しかし、1時間も走ると、草木がほとんど生えていない砂漠地帯となった。平坦な砂漠(ゴビ灘)の中の一直線の道路を東に進んだ。

  途中のオアシスの町に近づくにつれ、道路の両側は植林されていて、ダムクと言う小さな町に到着。ここで、行われている火曜バザールを見学。農産物や日用品がテントに並んでいる住民のためのバザールである。


草木が無いゴビ灘が続く         一直線の道路を行く            ダムクの火曜バザール
  


  5時過ぎにバスは出発。1時間ほどで、ケリヤ川沿いの町、ウータンを過ぎた。川の周辺は緑が多く、道路の両側にはコスモスの花が咲いていた。ウータンの町も結構大きい様で、道路には多くの電動3輪車が走っているのが見られた。ここも建築中の建物が多かった。

  ケリヤ側の周辺では水田もあったが、川の水量はさほど多く無い。やはり灌漑で使われているように思えた。

  さらに東に進んで検問所を通過し、ニヤ側の橋を渡った。かってはニヤ川の水量は豊富で下流部にニヤ遺跡のある町があったとの事だが、今はニヤ川の下流部は完全に干上がっていてニヤ遺跡に簡単には行けない。

  8時半にニヤの町のホテルに到着。9時10分から夕食。10時前に部屋に入り、シャワーを浴びてからシルクロードに関する本を少し読んで11時半就寝


 921日(水)晴れ
 (ニヤからタクラカマン砂漠を縦断する砂漠公路を通り、クチャへ)
  
6時半に起床して、昨夜の続きの本を読む。。8時半から朝食。今日の予定はニヤよりタクラカマン砂漠を縦断する砂漠公路をを通ってクチャまでの長いバス旅行で、全長は700km。そのうち砂漠公路は520kmで、完全に砂漠の中の道路は446kmあると言う。

  砂漠公路はタクラカマン砂漠内で原油や天然ガスを採掘する石油会社(中国石油)が石油採掘事業のために1993〜1995年に建設し、維持している。道路には大型トラックや乗用車の通行が多かった。

  ニヤに入る検問所は非常に厳しくチェックしているためであろうか、対向車線は長蛇の列をなしていたが、出て行く方は簡単に通れた。

  道路は初めにニヤ川沿いを進んだ。広い川らは湿地帯が続いており、予想以上に水が多い。後方(南側)には雪を被った崑崙山脈の高峰がうっすらと遠望された。草や灌木が生えており、馬、牛、羊が放牧されていた。

  砂漠公路の入り口のゲートのある所で停車して写真を撮った。途中の何箇所かで写真撮影、トイレの停車。砂漠公路は道路の両側は灌木が植えられ維持されているが、そこを外れると一木一草も無い砂漠が連なっていた。


砂漠公路入り口(446q地点)で    道路沿いだけが灌木で植林されている   波打っている砂山         
  


  道路の両側にある灌木は植林されたもので、維持するために4km置きに水をくみ出すポンプ小屋が108箇所ある。ポンプ小屋では地下30〜90mにある地下水をくみ出しで肥料の尿素を加えて、道路沿いの灌木に細いパイプで毎日給水して維持しているとの事であった。


赤茶色の細かい砂が風で飛ばされて砂山を作り、美しい風紋を作り出す
  


  道路沿いに植林された灌木は乾燥に強いソト、サゲナツメ、紅柳(タマリスク)の3種だが、給水のお蔭で枯れずに済んでいる。アシが自然に生えている所もある。これらは春から初夏にかけて美しい花を咲かせるとの事であった。


植林された灌木、ソト           サゲナツメ              紅柳(タマリスク)ピンクの花
  



  このポンプ小屋には運転要員として出稼ぎの人が住み込んで日中に給水作業を春から秋にかけて行っている。このような道路両側の灌木の維持管理をしないと道路は砂に埋もれて使用不能になる。この給水事業も石油会社が行っているとのことであった。



ポンプ小屋で地下水をくみ出して道路沿いに植林した灌木にパイプで給水
       
 
  タクラカマン砂漠の地下には大量の地下水が存在し、さらに深い地下には原油や天然ガスが豊富に埋蔵しているとの事であった。

  砂漠公路のほぼ中央にある塔中で昼食を取り休憩。近くに油田があるがメインの道路から外れていて見えない。石油採掘に関係する大型トラックが沢山停まっていた。

  タクラカマン砂漠の油田(タリム油田)は地下5000〜8000mにあるため掘削コストが高いが、原油価額の高騰や新しい掘削技術の開発で経済的な掘削が可能になったとの事で、今後さらに発展が期待されている。上海や北京へのパイプラインが設置されていた。



塔中で昼食                砂漠が延々と続く           砂漠公路出口(0mの標識がある)
  



  その後、数回写真撮影やトイレのため停車して、7時に砂漠公路の始発店(0地点)の標識がある地点に到着。砂漠の風紋、砂山が夕日に映えて美しい。砂漠公路0地点を過ぎると道路周辺には胡柳の林が出て来た。枯れ木が目についた。だんだん緑が多くなり綿花畑、綿花処理工場が見られ、人が住んでいる住居が道路沿いに見られるようになった。


胡柳が多数枯れていた          タリム河(川幅が広く水量豊富な大河)   樹齢1600年の胡柳の木
  


  8時前にタリム川に架かる橋を渡った。さすがに水量が多く川幅の広い大河であった。橋を過ぎると塔河鎮と言う街に出た。しばらく行くと樹齢1600年と言う大きな胡柳の所で停車し写真を撮ったが、蚊の群れが襲ってきた。ここで日没となり、道路沿いの胡柳の林の公園も閉鎖。

  この辺は輪南油田があるそうで、所々で石油をくみ出す井戸が見られた。バスは暗い中を走って天山南路沿いの高速道路に入った。クチャの検問所を通り、11時30分にクチャのホテルに到着。

  遅い夕食を取り、12時に部屋に入り久しぶりに風呂に入った後、少し本を読んで就寝。


22日(木)晴れ
 (クチャ近郊のキジル千仏洞、スバシ古城を見学)
  
7時に目が覚めて昨夜の続きの本を読む。8時半朝食.9時50分位バスは出発してキジル千仏洞に向かった。クチャ川の橋を渡る。クチャ川の水量は少ない。クチャ近郊は石灰岩が産出するそうで、石灰岩を原料とするセメント工場が幾つか見られた。


セメント工場              ポプラ並木               ヤルダン地形
  


  天山山脈の支脈の南麓に入って、砂と石が小山となり波打ってい敵が生えていないヤルダン地形となった。近くの茶褐色の山は地層が縦縞に付いていた。ヒマラヤ造山運動の結果出来たとのこと。

  岩山の間の道路を進んで塩水渓谷に達した。片側にはわずかの水が流れている渓谷。反対側にはラサにあるポタラ宮に似ていると言う丘が見えた。かって、玄奘三蔵もインドに向かう途中、塩水渓谷を通ったと言う。


塩水渓谷                 ポタラ宮に似ている(?)丘       塩水渓谷のトンネルを越える
  


  塩水渓谷のトンネルを越えると、低い丘が連なった広大な台地状の地形の中の道路を進んだ。遠くには上だけ雪を被った標高4000m級の天山山脈の山が見られた。

  12前に、天山山脈の南の山中にあるキジル千仏洞に到着した。ここも観光地として整備されて大勢の中国人観光客で一杯だった。待ち時間が30分以上かかるとの事で、先に近くのレストランで昼食を取ることにした。出された料理は薄味で油も少なく煮詰めていなくおいしかった。

  キジル千仏洞の入り口には最近建てられたクマラジュの銅像が立っていた。クマラジュはクチャの出身で父親がインド、カシミールの名門貴族、母親がクチャ王族の出身で4世紀に活躍した高僧である。彼は多くの仏典のサンスクリット語から漢語への翻訳を初めて行ったが、彼の翻訳は素晴らしく今でも多くが使われているとの事。

キジル千仏洞の入り口にあるクマラジュの像            クマラジュの像の周りの花を給蜜するヒメアカタテハ
     


  クチャは天山南路の交通の要所にあり、かっては亀慈王国として栄えた。漢や唐の時代には西域支配のため都護府が置かれたと言う。7世紀には玄奘三蔵も訪れている。亀慈王国は仏教王国だったのでキジル千仏洞以外にもいくつかの石窟寺院が作られて壁画も一部残っている。

  キジル千仏洞は3世紀から10世紀にかけてムザト河北岸の山の中腹に作られた石窟群で、全部で230以上ある。石窟の内部は仏画の壁画で彩られていたが、11世紀にはこの地域の人が仏教からイスラム教に改宗したため放棄された。


    キジル千仏洞
   


  公開されている17、32,34,38,10,27,8窟を約2時間かけて見学した。、

  ドーム型石窟内の壁画は壊されたものが多いが、残っている壁画はきれいで、当時の壮麗さがしのばれる。壁画を描くのに使われた顔料が鉱物質で、直射日光に当たることが無かったのできれいな色彩が残っていたのであろう。破壊された人の顔や眼、あるいは20世紀初頭の探検隊により切り取られた4角形の壁画跡が痛ましい。  

  お釈迦様、菩薩の像以外に、太陽や月の像、輪廻転生、日常生活を描いた像、お釈迦様に一生、涅槃の図などいろいろ描かれている。。

  8窟には正倉院にだけ残っていると言う5弦の枇杷が描かれていた。38窟は音楽洞として知られ、保存状態が良く特別拝観窟であった。いろいろの楽器を演ずる28人の楽師の壁画が並んでいた。

  3時40分にクチャ方面に戻った。途中で厳しい検問チェックがあり、バスを降りて検問所を通過。大勢の人が検問所で並んでおり、時間がかかった。

  メインの道路を少し外れて漢時代ののろし台跡を見た。2本の土壁の塔が立っていたが、保存状態が最も良いものだとのこと。


漢時代ののろし台跡           スバシ古城(寺院跡)入口           スバシ古城
  


  6時過ぎにスバシ古城に到着して見学。古城と言っているが、実際は大きな仏教寺院の跡で、クチャ川を挟んで西寺と東寺が広い敷地内にあった。3世紀から8世紀にかけて栄えて14世紀には廃墟となった。玄奘三蔵もここを訪れている。


スバシ古城
  


  現在は西寺だけが見学可能だが、崩れた土壁、土の仏塔が点在していた。特に西寺大殿跡は壁の高さが10m以上、厚さが3mで、周囲300m以上の壮大な建築物。


スバシ古城
  


  クマラジュもここで説法や仏典の翻訳をしたとの事であった。夕日を浴びながら古城内を一周したが、吹く風が心地よい。

  クチャ市内に戻って、バスはうろうろしながらレストランを探して到着。皆で会食する最後の夕食となった。2グループに別れて美味しい食事と歓談。楽しい会話で盛り上がった。

   後はホテルに戻ってシャワーを浴びて寝るだけ。

  
23日(金)晴れ
 (クチャから飛行機でウルムチに戻り、ウルムチで博物館を見学。夜半にウルムチから北京まで飛行機で戻った)

  朝、6時過ぎに起床。バナナ、ゆで卵、パンなどの弁当を貰いバスは7時半にホテルを出て、クチャ空港に向かった。クチャ9時50分発のウルムチ行の飛行機に乗った。


クチャ空港                飛行機から見る天山山脈の山        雪を被った山々
  


  飛行機の窓からは雪を被った天山山脈の高峰がみえた。11時前にウルムチ空港に到着。レストランで昼食後、新疆ウイグル自治区博物館に行き、1時間40分かけて博物館を見学。ウルムチは新疆ウイグル自治区の省都だけあって博物館も広く整備されている。

  まず、主として楼蘭付近の遺跡から出土したミーラーを見学。乾燥しているため埋葬された遺体がミーラー化して保存状態は非常に良い。3800年以上前の楼蘭の美女のミーラーも帽子や服を着た状態で見られた。その他、何体ものミーラもあったが皆保存状態が良い。楼蘭に住んでいた人々は背が高く、鼻が高く茶髪でヨーロッパ人と同じコーカソイドア系の民族のようである。

新疆ウイグル自治区博物館         楼蘭の美女のミーラ          漢時代の将軍のミーラの復元像
  


  後は順番に石器時代、青銅器時代から連綿とつながるこの地の遺跡の出土品の数々を時代を追って見学したが、駆け足で良く見られないのは残念であった。その後、新疆ウイグル自治区に住んでいる各民族の展示があったが此れも駆け足で見て回り時間となってしまった。

  後は、2004年位オープンしたと言うウルムチ国際バザールに行き、見学と買い物をした。広くていろいろのお店がある屋内バザールで多くの買い物客でにぎわっていた。ここのスーパーで土産物の干しブドウとバラ茶を買った。

  5時20分からレストランで夕食後、ウルムチ空港に向かった。6時過ぎに結構厳しいSecurity Checkを経て空港内に入った。予定のの北京行の飛行機は1時間遅れとなるとのアナウンス。実際にはさらに遅れて搭乗したが、飛行機は北京空港の着陸条件が悪いとの事で飛行機は飛び立たず1時間以上停まっていた。

   結局、飛行機は2時間以上遅れて飛び、真夜中の3時前に北京空港に到着。荷物の受け取りにも時間がかかり空港でバスに乗り、ホテルに着いたのは4時45分。シャワーを浴びて顔を洗い、着替えて5時45分には北京空港に向かった。

24日(土)曇り
 (北京空港から羽田空港に戻る)

  6時過ぎに北京空港に到着して日本に向かう飛行機の搭乗手続き。その後、関西空港に向かう同行者と別れ、羽田行の飛行機に乗り12時半に羽田着。

  最後までスケジュールが大幅に遅れ、忙しくて疲れた旅行であったが、多くの同行者とも歓談出来て、それなりに楽しめて良かった。


 今回の新疆シルクロード旅行で習った事、感じた事、考えた事

西域シルクロードの歴史、民族
2000年以上前から、ペルシア系、トルコ系、モンゴル系、漢族などの多くの民族がこの地で支配、攻防を繰り返してきた。現在ではトルコ系のウイグル人が最も多数となっているとの事であった。しかし、漢族の流入が多く都会では漢族が多数派となっている。支配、統治も漢族を中心にこの地の共産党政府によってなされている。開発に伴ってさらに漢族が増えてきて中国化が一層進行するものと思われる。ウイグル人などでこれに反発する人もいて難しい民族問題も出て来ている。随所に見られた、民族融和と書かれた大きな看板や厳しい検問などはこの問題点を示しているように思えた。
 

現在のシルクロード周辺の開発豊富な石油、天然ガス、石灰石
タクラカマン砂漠やその周辺には鉱物資源が豊富に存在していることを再認識。今後さらに開発、人口増が進んで行くのだろう。

開発、人口増に伴う廃棄物処理の問題:
ゴミ処理、下水処理はどの程度為されているのだろうか?、道路沿いに散らばっている、ペットボトル、ポリエチ袋などのプラスチックごみが気になった。これらは自然に分解すること無く残って行く。

宗教について

 
植物、花と蝶
  
河川からの水の利用―成長している都市の飲料水や綿花畑、麦畑、緑地帯の灌漑用水:
タリム盆地は周囲を雪を被った高峰で覆われているので、そこから流れてくる雪解け水が豊富で水量が多いことが分かったが、それでも水の過剰使用の問題は無いだろうか?旧ソ連で、大量の灌漑用水を大河のアムダリア、シルダリアから取水したため、水が流れ込んでいたアラル海が干上がって環境破壊を引き起こした例があるだけに気になった。