チベット旅行記 (ラサ-カイラス巡礼(コルラ)-カシュガル)

91日〜925

 若い頃、川口慧海や西川一三のチベット旅行記やチベット潜入の話しを読み、その中に出ていたマナサロワール湖やカイラス山などに実際に行って見たいと思っていた。

 数年前には中国の西寧からチベット鉄道が通じてラサ周辺は日本からも大勢の観光客が出かけているようである。ラサからチベット第2の町シガツエまでは道路、ホテルなど整備された開放地域で容易に行くことが出来るようになった。

 一方、マナサロワール湖やカイラス山がある西チベットは対外非開放地域で特別の入域許可が必要である。少し古いガイドブックやインターネットのサイトを見ると、ラサの安宿に泊まってカイラスに行く仲間を募ってランクル(ランドクルーザー)を雇って行ったとか、ヒッチハイクで行ったとの記述が見られる。

 自分としては出来たら一人旅を楽しみたい所だが、この地域の公共輸送機関は全く当てにならない。中国語もチベット語も出来ないのでコミュニケーションが心配である。ヒッチハイクで行くほどの体力、気力は無い。入域許可書は旅行社を通して申請とあるが、一人で旅行社を通じて英語または日本語が通じるガイド、ランクルの運転手などを頼んで行くとすると、非常に高額なお金がかかる。

  インタ−ネットで調べると日本からこの方面のツアーを組んでいる旅行社が23あることがわかった。そのうち、日程的に都合が良かった西遊旅行社の91日から25日までのラサ−カイラス巡礼−カシュガルのツアーを申し込んだ。

 日程が長く少し料金は高いが、高山病対策などもしっかりやってもらえるし、すべてお任せの旅行で気楽、安心である。始めは参加者が5名と聞いていたが、結局、東京と大阪からの会わせて8名であった。

 チベット、カイラスに行くにあたって。少しは事前勉強をやろうかと過去のチベット旅行記、チベット仏教に関連する本で、自宅の書棚に会ったもの、友人などから借りたもの、図書館から借りたものなどいくつか読んだ。川口慧海「チベット旅行記」、「第2回チベット旅行記」、ハインリッヒ ハラー「セブン イアーズ イン チベット」、夢枕獏「西蔵回廊−カイラス巡礼」、ラマ、ケツアン、サンポ「知恵の遥かな頂き」、藤原新也「チベット放浪」、河邑厚徳、林由香里「チベット死者の書」、田上一彦「内なる崑崙を訪ねて」などである。特にチベット仏教の精神性、死と生に関する考え方に興味を感じた。

91(): 東京−成都
  前日の夜、京成成田駅前にあるホテルに宿泊。朝早く起きて電車で成田空港に7時前に着いた。空港まで配送して貰った荷物の大型ザック(重量が14.4kg)を受け取り、集合場所に赴いた。ツアー参加者で東京からの6人と添乗員の吉田さんが顔合わせした。

 中国国際航空の北京行き9時発の飛行機にチェックイン。ほぼ定刻どおり北京に着き、入国審査を終えて、成都行きに乗り換えた。しかし、北京空港が込んでいたため、出発が大幅に遅れて、成都に着いたのは6時ごろ。空港よりマイクロバスでホテルに向かった。

 成都は高層ビルの立ち並ぶ大都会である。片道3車線の道路には車が一杯で混雑しており、最近の中国の地方の主要都市の繁栄振りを示していた。しかし、盆地上の土地のせいか、もやがかかっていて空気が汚れている印象を受けた。

 関空から来る参加者2名の飛行機も大幅に遅れて夜遅く合流。ともに夕食を取った後はすぐに床に就いた。

92日: 成都−ラサ
   4時半起床。5時半にマイクロバスで空港に向かった。朝食に用意された弁当はバスの中で食べることになったが半分も食べられない。一時間近くで成都空港について9時発のラサ行きにチェックイン。しばらく時間があるので空港内の土産物屋、書店を眺めた。

 飛行機は定刻に出た。途中は殆んど雲に覆われていたが、雲海の上に突き出た雪の山々が遠望できた。1050分にはラサのコンカル空港着。ここで、今後、我々をガイドをしてくれるチベットの旅行社のチベット人ガイド2人、ツリンとチャムデンを紹介された。

                 

 空港からラサ市内まで約70km。トンネルを経由する新しい道路が出来てアクセスが良くなったとのこと。途中、岩の上に書かれた彩色の大仏の壁画を見学。この際、参加者のSさんが高山病の影響か倒れて心配したが、手当てが適切だったようで事無きを得て安心した。その後、病院に行き治療を受けたとのことであったが、以後の旅行には全く支障は無かった。

 ラサは高層ビルが建ち並び、道路は広く車も多く予想以上の大都市であった。昼過ぎにホテル(チベットホテル)に到着。

 昼食後、大昭寺(ジョカン)の周囲にある市場(パルコル)を歩いて見学。生活用品、仏具、土産物を売っている小さなお店が立ち並んでいてチベット色にあふれていて面白い。大昭寺の正面では5体投地をしているチベット人が見られた。後半は自由時間になり、面白そうなのでさらに周辺も見て回った。こんな人混みの所でも、武装警官の姿が目に付き気になった。

                

 高度と暑さのせいか、少し疲れた。後はホテルに戻り、休息。

93日:ラサ、ポタラ宮などを見学
  6時半起床。パン、野菜、コーヒー、ジュースの朝食。8時にホテルを出発しポタラ宮に向かう。ポタラ宮の前は観光バスや車が一杯で、大勢の観光客が待っていた。

 ポタラ宮は白と黒に壁が塗られていてその対称が面白い。入場は8時半で見学は2時間以内。特に内陣は95分から一時間以内の制約があった。ポタラ宮の内部は壮大華麗な壁画、仏画、仏像、歴代ダライラマの像が一杯であった。しかし、現在のダライラマ14世の写真、像などは一切無い。

  

 よくもこんな所にこんな建物を建てたと感心する。古いものと新しく作られた(修復された)物が混在している。当然のことながら中国人観光客が一杯で、列を成して観光ルートを進んだ。もはや、ポタラ宮が宗教施設でなく観光施設であることを実感した。定刻前に出口を出た。外は小雨が降り続いていた。

 10時半、市内の尼寺(アニツアン ゴンパ)付属の喫茶店に行き休憩し、ミルクティーを飲んだ。甘いがおいしい。その後、この尼寺を見学。入り口は狭いが中は意外に広く部屋がいくつかあり、若い尼僧がかなり大勢いて、読経していたり、マニ車の経文のための作業をしていた。ここではチベット仏教が生きているのだという感じがしてほっとした。


  

 見学を終了しバスに戻り、中国料理のレストランで昼食。バスでポタラ宮の前の公園広場に向かい少し遠方からポタラ宮の全貌を見た。

 その後、大昭寺(ジョカン)の内部を見学。ここも大勢の人で一杯であった。多くのお堂、仏像、仏画があったが、多すぎて印象に残らなかった。ただ、屋上で労働奉仕の工事(土固め)をしている人達の歌声が印象的であった。

            

 320分、バスに戻り次のノブリンカに向かった。ノブリンカはダライラマ14世が居住していた所で現在は公園となっている。美しい装飾の建物、木が一杯で花が咲き乱れた広い庭園が美しい。ダライラマ14世が残していったものはあるが、その肖像、写真などは無い。

 夕食はチベットの鍋料理。油っぽくなく、薄味でおいしかった。

94日:ラサーナムツオーラサ
  本日は高度馴化の一環として標高4718mにある湖、ナムツオにバスで行った。8時に出発。雨が降っていて寒い。途中、チベット鉄道とほぼ平行に走っていて道は非常に良い。チベット鉄道を走る貨物列車、客車が通り過ぎるのを車中から眺めた。途中のタムという町を通り過ぎた。新しい建物、アパート群がかなりあり、中国人(漢民族)がどんどん移住していることが伺える。チベット鉄道から離れてナムツオのある国立公園に入った。雨が降ったり止んだりで、山の上はすべて雲に覆われていた。5192mの峠を越えて1230分過ぎにナムツオ()の湖岸に到着。結構大きな湖である。駐車場には沢山の観光バスが止まっていた。招待所(ホテル)もある。レストランでチベット料理の昼食。

 その後はナムツオの湖畔を散歩。水は塩湖と言うが塩味は薄い。幸運にも雨が上がり、陽がさしてきた。青い湖が青い空に映えて美しい。遠くの雪を被った山は上だけが雲に隠れている。その後、チベット仏教の創始者であるパドヴァサンバヴァが瞑想をしたという洞窟、ゴンパ()23箇所見学。3時から自由時間で、湖岸の小山の上に添乗員の吉田さんと上がった。急な登りはやはり息切れがする。上はタルチェの旗がひらめいていて遠くの景色が美しい。下りは楽である。バスで帰路に着く。

  

 チャタン峰が見えると言う展望台で停車、しかし、雲に覆われてチャタン峰は見えない、ここから、ラサまで142kmの標識。途中の道の周辺は、木、林などは一切無く岩山である、岩山の間を川が流れていた。両岸の草原ではヤク、牛、羊が放牧されている。

  帰りの途中でもチベット鉄道を客車が通過するのを見た。

 8時にようやくラサのホテルに帰着。レストランで中国料理の夕食。部屋に戻り、入浴後就寝。夜中、雷鳴がとどろいているのを聞いた。チベットで雷鳴とは!

95日:ラサ−ギャンツエ
  6時半起床。7時朝食。参加者8名、添乗員の吉田さん、現地ガイド2名が4台のランドクルーザー(ランクル)に分乗して、チベットを西に向かって825分出発。空港とシガツエに向かう分岐点を過ぎ、ヤルツアンポ川の橋を渡ってすぐの丘の上にある鳥葬(水葬)の場所で止まり見学。目の前のヤルツアンポ川の水量が多いのにびっくり。水は土色に濁っている。鳥葬は人間が死んだら、その意識は肉体から離れて、肉体は自然に還り他の動物が生きていくのに寄与すると言うことなのだろうか。人間も自然の一部だと言う考えが伝わってくる。切り刻んだ人間の肉体は鳥の他、魚の餌にもなる。そこで、チベットの人は一般に魚を食べないとのことであった。

    

 ヤルツアンポ川の周辺は豊かな農村地帯のようで広いビニールハウスも見られた。また、次々と新しい道路が建設されていた。ここから、長い登り坂に入った。はるか下を流れているヤルツアンポ川が見えた。この長くて急な登り坂を自転車で上がる白人の2人ずれがいた。上がりきったカムパラ峠(標高4700m)に11時前に到着。向こう側には雪を被ったニンチェンカムツエン山脈、下にはヤムドウク湖が見下ろせた。20分休憩後、ヤムドウク湖まで下り湖畔で休憩。空は晴れてきて、青い湖が映えて美しい。

 しばらく行ったナガルスエで昼食。昼食は油っぽくなく、あまり辛く無く食べやすい。伺った所、日本人向けに味付けを代えて貰ったとか。本場物はもっと辛いとのことであった。

 次の峠に向かって長い谷沿い上り坂を上がって行った。210分、上がりきった峠は標高5000mのカロラ()ですぐ近くに氷河の末端が見えた。この氷河も以前は道路沿いにまで来ていたのに、地球温暖化の影響か後退しているとの事であった。

  20分休憩後、峠を下り、さらに次の峠(シミラ峠、4370m)に達した。真下に青い水のダム湖が見えた。このダム湖は3年前に出来たそうだが広い。発電、治水、利水などの多目的のダムだと思えるが、中国のチベット大開発の成果の一つであろう。


       

 4時にチベット第3の都会で本日の宿泊場所であるギャンツエに到着。先ず、丘の上にある城(砦、ギャンツエ ゾン)に上がる。車は細い道を上がって行った。上は非常に見晴らしが良い。この砦は1904年に鎖国していたチベット軍とイギリス軍が対戦した場所でその記念碑と、古いチベットが如何に過酷であったかを示す裁判、刑罰の蝋人形が展示されていた。一番上まで上がる。この城の周りは古いチベット人街(旧市街)があり、その外側を新しいコンクリート造りの中国人のアパート群が建設されていた。この町もチベット人より中国人の人口が多くなっているのだろうか?アパート群の後ろには川が流れていて広い平野があり、大麦畑が広がっていた。

    

 車で下まで降りた後、旧市街を散歩した。細い道で、牛、羊、犬、人が一緒にいる典型的なチベットの町並みと言う印象を受けた。しかし、こういう町並みも再開発で消えていくのかもしれない。

96日:ギャンツエーシガツエ
  7時起床、7時半朝食。朝食でチベットの伝統的な食料、ツアンパ(大麦粉、砂糖、チーズの粉をバター茶で練ったもの)を食べてみる。結構おいしい。先ず、白居寺(バンコル チョーデ)に向かい9時より2時間見学。ここは1418年創建で特定の宗派に属さない寺だとのことである。ひときわ目立つ8階の塔、パルコル チョルテンは77の部屋があるといわれており、各部屋は仏像、仏画、壁画で飾られている。下のほうは日本の仏像に似ているが、上のほうに行くとヒンヅー教の影響があるような仏像となっていた。色々の宗派の仏像が混在しているのかもしれない。

    


                   

 白居寺を見た後、周囲が麦畑の道を進んだ。途中で車を止め、古い大麦製粉工場を見学した。動力源は昔ながらの水車。横に流れている小川の水を利用して縦型の羽を回して石臼の製粉機を回していた。ここで、炒った大麦を買った。昔は日本もこのようなことをやっていたのだなと思いながら炒った大麦を食べたが、昼飯前でもあり結構おいしかった。

 その後、車は舗装された快適な道路を進んだ。あたりは一面大麦畑でチベットの主要産業が農業であることが分かる。しかし、木や林は少なく、道際に植えられた背の低いポプラだけであるのはどうしてだろうか?

 昼過ぎにシガツエに入った、シガツエはチベット第2の現代的な都市で開けている。中国人が多く中国人の町となっているように見えた。1時から昼食。

 2時すぎから、タシルンポ寺を見学。この寺は1447年に創建されたパンチェンラマの居寺であるとの事。壮大なお寺で、大きな仏像(弥勒菩薩像)が目に付いた。歴代のパンチェンラマの金色に輝く棺のある御廟が並んでおり、エジプトで見たツタンカーメン王の棺を思い起こした。


                

 広いお堂は大勢の僧侶が座る座布団が並んでおり、一週間前にはパンチェンラマ11世が北京より来てここで勤行を行ったとのことであった。

 340分にホテルに着き休憩。ホテルの隣にあるスーパーマーケットに行き見学がてら買い物。大きなスーパーで品揃えも豊富。野菜、果物について興味があったのでそれらの売り場を見た。殆んどの野菜、果物が日本と共通であるが、こちらに特有なものもある。野菜、果物は量り売りなのでよく分からないが、公定為替レートの1元が15円として単純計算で比べると日本のほぼ2分の1から3分の1の値段である。

 ヤクの乾し肉、ミックス乾し果物、ブドウを買った。生のブドウは日本の物と変わらない。

 快適なホテルはシガツエが最後で明日以後は期待できないので、バスタブに浸かり髪などを洗った。

97日:シガツエ−サンサン
  6時半起床、7時朝食、8時過ぎに車に乗り出発。ブッシュがわずかに生えた岩山の間に川が流れており、川の両岸に畑(菜の花畑、麦畑)が広がっていた。黄色の菜の花の他、ピンク色の菜の花が珍しかった。菜の花の背丈は低い。このような道が延々と続いていた。

 1930分、トウラ(峠:4500m)で停車。タルチェの旗がはためいていた。峠を下り、11時にラツエの町の手前、カトマンヅへの道路の分岐点で停車。分岐点を南に行くとエヴェレストの近くを通りネパール国境に向かう。我々はそのまま西に進んだ。途中、道路の左側にランツオという湖が見えた。  

 12時過ぎ、ガムリンという町のレストランで昼食。昼食とその後の休憩はゆっくりして、150分出発。道は登りとなり、4710mと4780mの2つの峠を越えて行った。上の方は道際に雪が残っていた。

 3時前にサンサン(桑桑)に到着。この町は標高4593mで高度が高い。桑福館(Symphonia Hotel)に泊まる。部屋は良いが共同トイレは汚い。昔の日本の山小屋のトイレの雰囲気である。お茶を飲んで休憩後、近くの丘の上にあるゴンパ(寺)を見学。僧坊はかなりあるようだが貧しそう。丘の上にはタルチェの旗がひらめいていた。

  

 6時半、夕食。今日から専任のコックのタシさんが作った日本風にアレンジした料理が出ることになった。そこで、コック一人とアシスタント2人が食材、コンロ、テント、寝袋などを積んだトラックで別に同行するとの事であった。

98日:サンサンーサガ
  日中に道路が通行止めになる可能性があるので、通行止めになる前に検問所を通過しなければならないと言う話で、朝早く出発することになった。

 朝3時に吉田さんがお茶を持ってきてくれた。3時半、コックが作ってくれたおかゆなどで朝食。まだ真っ暗な4時過ぎに出発。始めは舗装された良い道であったが、途中から道路工事中で大きな石でブロックしている。その横のがたがたのダートロードを通った。このような舗装道路とダートロードが交互に続く道を進んだ。所々、道路工事用の大型車、ブルドーザー、コンクリート車、クレーン車が止まっており、盛んに道路工事が行われていることが見て取れた。

  道の両側に雪が積もった5000mの峠を越えて下りた所にある検問所で(735分)、パスポートと入域許可書のチェックを受けた。チベット人も移動するのに許可書が必要なそうである。日本人客、チベット人のガイド、運転手が乗った我々はチェックが厳しいのか40分もかかった。一方、中国人が大勢乗ったバス、車は簡単に通過していった。少し不快だが、ここが対外非開放地域であることを実感させられた。

  検問を終えてしばらく行くとサガの町はすぐである。左側には広い川幅のヤルツアンポ川がゆったりと流れていた。820分にサガ(標高4470m)に到着。ここは軍事的な拠点のようで軍の施設が目に付いた。朝9時にホテル(サガ ホテル)にチェックイン。このホテルは新しく、部屋も良くトイレも水洗(ただし、水の流れが良くない)で部屋についていた。    

 1時からタシさんの作った料理をホテルのロビーで昼食。3時から町の通りを皆でぶらついた、町のチベット料理店でバター茶を飲んだが結構おいしく、お代わりを繰り返した。


      

  その後、ホテルに戻り、隣のスーパーで缶ビール(ラサビール)とつまみの落花生を買い、町外れのヤルツアンポ川の岸辺まで行って川沿いを歩いた。川は広くて遠くから見るときれいだが川岸はゴミで一杯であった。

 6時から夕食。今日は特別に味噌汁など日本風にした料理。日本茶なども出て久しぶりの日本の料理はおいしい。

99日:サガーバルヤン
  5時に目が覚めた。5時半にはモーニングコールの紅茶。6時朝食、710分出発。途中でトラックが泥道でスタックしたが、スコップを使い通れるようになった。その後は食材、テントなどを積んだトラックと我々が乗ったランクル4台が一緒に進んで行った。

 道はサガラ(峠)を上がって行った。道路工事用の大型車などが並んでいる、日本製のKOMATUの建設機械も多数並んでいた。その横のぬかるんだダートロードなどを通って進む。峠(4740m)に85分着。峠を越えた下りの道も道路工事の最中。


   

 9時にタルキェリンの町を通過。ヤクが放牧されていた。道は川沿いに進み舗装道路になった。昼になり途中の町の小さな中国料理店で休憩し麺を食べた。その後、また車に乗り西に進んだ。

 途中の村はずれの丘の上にある小さなゴンパ(寺)に詣でて見学。23人の僧侶のこじんまりとしたいかにも田舎のチベットのお寺と言う雰囲気が良かった。


   

 舗装道路の道は川沿いに進み峠を上がって行った。315分に4730mの峠で停車。向こうに青い水の湖(トウツオ)が見えた。その先はヒマラヤの雪を被った高峰のはずだが、雲に覆われて残念ながら見えない。あたりは広い砂丘となっていた。反対側からインド人の巡礼グループと見られる車(ランクル)が10台ほど通り過ぎた。

 4774mのスケラ(峠)を越えて4時半にパルヤンのホテル(パルヤンホテル)に到着。パルヤンは標高4586mで小さな宿場町の雰囲気である。ホテルの入り口には野犬が一杯であった。

 このホテルは田舎町にしてはまあまあだが、布団などは少し汗臭い感じがした。日本の込んでいる夏山の山小屋よりはマシ。狭い町を少し歩いた。遠方にはヒマラヤの雪を被った高峰がわずかに見えた。

 夕食はコック特製の日本風のカレーライスとキューリの酢の物。

 9時半就寝、真夜中にトイレで外に出た時、空を見上げると満天の星が非常にきれい。久しぶりに天の川を見ることが出来た。

910日:バルヤンーマナサロワール湖
  7時起床。7時半紅茶。8時朝食。95分出発。

 道は道路工事中の個所もあるが殆んどが快適な舗装道路。周りは広い草原。小さな湖、池が点在してよい景色。南西側には雪を被った6000m級の山々が見える。大きな川幅の橋を渡ってしばらくの所で検問所。30分以上かかって入域許可書とパスポートのチェック。

     

 マユム地区(4890m)に入り少し行って停車、広い草原の道端でシートを敷いて昼食。オーストリアから来たと言うグループも昼食を取っていた。コックが作ってくれた麺、肉、デザートのリンゴ。おいしい。草原の向こうは岩山と青空、白い雲が美しい。しかし、周囲のあちこちにゴミが散らばっていて頂けない。傍にはテントの茶館と商店があり、食料品を売っていた。

 1250分出発し峠を上がって行った。途中で停車。我々の荷物などを積んだトラックが検問所で引っかかり動けない状態との連絡。荷物を積んだトッラクは8時過ぎにしか通過出来そうも無いとのこと。本日の泊まる所とレストランでの夕食を確保するため、ガイドと添乗員が乗った一台が先に行った。残りの3台はゆっくりと峠を上がった。マユムラ(峠、5210m)で10分休憩(1時半)。風が強くタルチェの旗がひらめいていた。上からの見晴らしは雄大。下りの途中で湖(クンギュツオ)が正面に見えた。さらに進んでカイラス山が遠望できる峠に着いた。大きなタルチェの旗を車で一周。  

  目の前にはマナサロワール湖が広がっていた。これがマナサロワール湖かと長いこと見つめていた。始めは雲に隠れていたカイラス山は雲が取れて白い雪の山が遠望出来るようになり、皆で歓声を上げて見入った。そのまま車は湖畔まで進んだ。本日はここで宿泊。湖畔にある営業用に設置された大きなテントに男女に分かれて泊まり、ここで夕食を取ることになった。テントにはベッドが9個あり、ここを4人で泊まるので広さは充分。


  

 マナサロワール湖の湖畔を散歩した。目の前の湖は思っていたより小さく、水もきれいで無かったが、標高が4610mもあるとは思えない。湖に流れる川の水はきれいで冷たかった。湖の向こうには上部は雲に覆われた雪山のナムナニ峰が遠望され雄大な景色である。            

 夕食(610分より)は添乗員の吉田さん持参の卵スープ、お赤飯の他、ジャガイモ、ヤクのバター、うどんのスープでおいしい。

 夕食後でもまだ明るい。マナサロワール湖の対岸の上の雲に沈む夕日、夕焼け雲が美しい。カイラス山は夕日に映えて少し赤くなっていた。


              

  10時過ぎに就寝。テントの中のベッドは暖かったが、時々吹く隙間風が冷たい。野犬の遠吠えが盛んに聞こえた。夜中にトイレで戸外に出たが満天の星がきれいで見入った。

911日:マナサロワール湖−タルチェン
  5時に目覚め、その後はうつらうつらしているうち7時半にお茶。まだ暗い。気温は6度で少し寒い。8時朝食。コックのタシさん特製のおかゆ、卵焼き、紅茶。

 朝日が上がりだし、カイラス山がマナサロワール湖の向こう側に映えて見えた。湖岸を一人で散歩。大きな野犬がずっと付いてきて少し怖くなり引き返した。黒い野犬が多いが馴れ馴れしい。

 準備して95分出発。ホテルを建設中の小さな町ホルチョを通り過ぎる。道は舗装道路となり右手にカイラス山を見ながら進んだ。11時前にはタルチェンの町に到着し、通りを歩いた。小さな商店、土産物屋が立ち並んでいた。通りを突っ切って町外れの山の麓にあるホテル(ミンツイーホテル)に到着。ホテルからの見晴らしは良く部屋の雰囲気も良い。


           

 タルチェンの町はカイラス巡礼の拠点で、ホテル、レストラン、小さなお店が一杯である。さらに新しいホテルが建設中であった。今後、水の供給、今でもあたりに散らばっているゴミの処理をどうするのか気になった。   

 部屋に入り荷物を出し、下着、靴下などの洗濯。陽射しが強く良く乾く。1時よりコックさんが作った日本風にアレンジした料理で昼食。

  2時よりガイドのツリムさんの案内で町をぶらついた。戻った後は長い休憩。目の前の平原、湖(ラカス タル湖)、雪を被ったナムナニ峰を見ながら椅子に座りゆったりと休息し贅沢なひと時を過ごした。持参の本、「知恵のはるかな頂き」の続きを読んだ。

912日:タルチェンーチュクゴンパータルチェン
  本日はカイラス巡礼の予行演習でチュクゴンパまでの歩き。朝食後、810分過ぎに歩き出した。途中、チュクゴンパが見えるタルチェの旗がひらめく丘の上で休憩。チベット人の巡礼親子がここで5体投地してから我々を追い越して行った。1050分、5月にはサカガタ祭(大きなタルチェの心柱を交換するお祭り)が行われると言うタルボチェに到着。


                    

 一時間でチュクゴンパの下の川岸に着いた。テントの中で昼食後、川に架かる橋を渡って山の中腹にあるお寺(チュクゴンパ)に上がった。標高が4860mあるのでやはり息切れがする。チュクゴンパを見学し、お賽銭を上げて拝んだ。


                    

 2時前に下山。車に乗ってタルチェンに戻った。カイラス山は雲にかかって近くから見ることが出来なかった。おまけに小雨が降ってきた。帰り際に4人のチベット人女性が5体投身をしているのを車から眺めた。大変なことであろうと信仰の強さを感じた。

ホテルに戻ってから休息。曇っており小雨が降っていて寒い。おまけに電気がつかない。7時からろうそくを灯して夕食。皆、口数が少ない。8時から電気は点き出した。

913日:タルェンーチュクゴンパーティラプクゴンパ (カイラスコルラ 1日目)
  6時半に起床。空はまだ真っ暗で満天の星。冬の星座であるオリオン座、三ツ星、冬の大三角形の星の他、周囲の星が沢山見えた。しかし、しばらくするうちに雲が出てきてこれらの星も見えなくなってしまった。

 7時半、朝のお茶。カイラス巡礼に自分が持っていく荷物、ヤクに運んで貰う荷物を分けてザックに詰めた。8時朝食。準備して945分出発。まず昨日行ったチュクゴンパまで車で行った。1015分着。

 ここで、ヤクに積んで貰う荷物、ポーターに運んで貰う荷物を仕分け。自分は荷物がそれほど無いので担いでいくことにしたが、他の参加者7名は荷物をポーターに運んで貰った。荷物をヤクに積んだり、どの荷物をどのポーターが持つかで時間がかかり、出発は11時。ヤクは全部で13頭で、テント、食料、炊事用具、寝袋などを運んで貰う。


    

 気温は10度くらいで、風がややあり少し寒い。ゆっくりと歩いていった。途中、3040分おきに休憩して、145分に大きなテント2張がお店、食堂として営業している4910m地点で昼食。カイラス山は雲に覆われて下のほうがわずかに見えるのみであった。

 途中、何度も休憩しながらゆっくり歩いて4時半ごろ本日の宿泊地、チュラプクゴンパ(5025m)に到着。テントを設営して貰い、チョコレートを飲んでホッと一息をついた。ゴンパに上がり詣でて見学。カイラス山は中腹まで見せてくれたが、残念ながら上は雲に隠れたままであった。

    

 テント泊は厚いマット、まくら、毛布、湯たんぽがあり、これに持参のスリーシーズン用の寝袋で充分暖かかった。

814日:チュラプクゴンパ−ドルマラ(峠、5668m)−テント場 (カイラスコルラ 2日目)
  5時半朝のお茶。外はまだ真っ暗。暗い中でライトをつけて荷物のパッキング。6時朝食。気温は6度で寒い。標高5000mを越えているので少し動くとやや疲れる。

 7時半出発、今日もゆっくり歩いて長めの休憩をしていくペース。殆んど休憩をしないで23時間ゆっくりと続けて歩く自分の山行のペースと会わないのでかえって疲れた。

 最後のきつい登りをKさん、Tさんに続いて上がり、今回の最高地点ドルマラ(峠、5668m)に1146分着。あたりはわずかに雪が積もっており、タルチェの旗がひらめいていた。風がややあり気温は5度で寒い。残念ながら曇り空である。12時過ぎには参加者全員が峠に上がり、皆で記念の写真を取った。タルチェンの町で買った5色のタルチェの旗をガイドにつけてもらい旅の安全の祈願をした。


  

 1215分に下り始めた。岩がごろごろしている急斜面の山道だがそれなりに整備されているので問題なく降りることが出来る。


    

 急斜面を荷物を積んだヤクの群れが追い越して行った。急斜面の岩がごろごろした道を折りきって、川沿いの大きなテントのある休憩所に到着した。ここで標高5240m。大した山道でないが、標高のせいか疲れた。簡単な昼食後、320分出発。川沿いの岩がごろごろした道を歩いた。途中でひっきりなしに鼻水が出てきて疲れた。やっとのことで620分にテントサイトに到着。遅れて心配していたAさん、Kさんも無事に到着した。

 7時に夕食。全然食欲が無い。テントの中の寝袋に包まったが眠れない。頭痛がして少し吐き気がする。睡眠剤を飲んだが眠れない。高山病かと思ったが、のども痛いしどうやら風邪を引いてしまったらしい。明け方少し眠ったが、頭痛、鼻水、のどが痛いのは収まらなかった。

915日:テント場−ズトウル プク ゴンパ(4810m)−タルチェン (カイラスコルラ 3日目)
  7時半、朝のお茶。のどの痛いのは直らずしみる。8時朝食。910分出発。1045分にズトウル プク ゴンパに到着。ゴンパに詣でて見学後、下の原っぱで昼食。

 12時に出発。川沿いの道を歩いた。途中何度か休憩して2時に車が待っていた所に到着。ここで、荷物を持ってくれたポーター達と別れて車に乗りタルチェンのホテルに戻った。

     


  かくして、念願であったカイラスコルラ(巡礼)は終わった。これまでの山歩きの経験で薄着をしていたためか、冷えて風邪を引いてしまったのは誤算であった。行動中の薄着は良いとして、長い休憩時間にもう一枚着るべきであった。また、曇り空で間近からカイラス山を仰ぎ見ることが出来ず少し残念であった。

 参加者8名のうち大半が山登りの経験者でも無いのに関らず高山病にもならず無事にコルラ出来たのは添乗員の吉田さんと現地スタッフの大きなサポートと高度馴化に配慮したスケジュールのお陰だと感じた。

916日:タルチェン−ツアンダ
  今日も風邪で調子が良くない。810分車で出発。曇空で、途中で見えるというカイラス山も全く見えない。外の荒野は霜か雪でうっすらと白くなっており寒い。走りやすい舗装道路を進んでいった。途中で野生の馬(キャン)やヒマラヤガゼルの群れが走っていくのが見えた。

 昨夜は標高5000m以上では雪が降ったらしくあたりの山は白くなっていた。ムンツエルの町から舗装道路を離れてダートロードをしばらく行くと、川沿いの温泉が湧き出ている所に達した。しばらく行って停車、左側の丘の上にあるテイルタプリ ゴンパ(寺)に向かった(930分)。このゴンパ、78世紀ごろチベット仏教の開祖であるパドマサンバヴァによって建てられたとのこと。皆でお布施代わりにお守りを買った。ここから石灰岩の丘の上に上がった。下には川が流れていて見晴らしが良い。タルチェの旗がひらめいている丘を下り、温泉が流れ出ている所に至った。水量はそれほど多くないが熱い温泉が湧き出ていた。


      

 来た道を戻り再び舗装道路をしばらく進んだ後、11時半ごろパルの町から左に折れダートロードを進んだ。日がさして来た。ここの道も随所で道路工事中であった。埃っぽいが雄大な景色の道を上がって行き5135mのダジャラ峠に達した。上では羊が放牧されていた。この道は現在工事中だが、昨年は悪路でもっと時間がかかったとのことであった。この調子では23年後はすべて舗装されていることだろう。さらに、5130mの峠を越え、次いで23の峠を越えた4800m地点の丘の上で昼食。

 道は下っていく。遠方に土柱(土林)が見え出した。雄大な景色である。その先はインドのラダック地方だとか。大きな渓谷を下り、また上がり展望台(4490m)に到着。はるか対岸は土柱群、その向こうは雪を被ったヒマラヤの山々。土柱が立ち並ぶ渓谷沿いを下る。道路工事中で土埃が激しい。下まで下ってサトレジ川の橋を渡った。


    

 サトレジ川は川幅が広く川の水もきれいであった。丘を上がるとツアンダの町(3820m)であった。ホテル(トランスポーテーションホテル)に350分到着。ツアンダは意外に大きな町で、チベットにしては珍しくポプラなどの背の高い木が生えておりきれいな町であった。こんな辺境の町にも多数の中国人(漢民族)が移住して来ていることが商店街の様子からも察せられた。小さなスーパーマーケットでラサビール一缶とつまみを買って飲んだ。

917日:ゲゲ遺跡、トリン寺を見学。
  本日は、今回の旅行でカイラス巡礼に次ぐハイライトであるゲゲ遺跡の見学。途中の道路が工事でゲートを閉める可能性があるとのことで、朝早く5時半に起きて朝食後、まだ暗い7時にホテルを出発した。

 途中は至る所で道路工事中のようで一部は既に舗装化されていた。道はサトレジ川の川沿いから丘の上にゆっくりと上がって行った。740分、ゲゲ遺跡の入り口に到着。


  

 ゲゲ王国の城の遺跡は急な丘の上にある。まだ薄暗い中で素晴らしい景色が広がっていた。843分に日の出。910分に開場。先ず、入り口近くの紅宮と白宮を見学。チベット仏教の仏画、仏像、壁画か堂内を飾っていた。さらに急な丘を少しずつ上がり、丘の上にある王が住んでいたというお城を見学。よくもこんな高い丘の上に城を建てたものだと感心する。サトレジ川の流れを真下に見る丘の上からの眺めは素晴らしい。ゲゲ王国が栄えた15世紀には周囲はもっと雨が多く肥沃な畑が拡がっていたものと思われた。しかし、こんな辺境の地に栄えた国があったのが不思議な気がした。


     

 2時間近くかかり、ゲゲ王国の遺跡を見学してツアンダの町に戻った。途中は道路工事中で、工事の個所を避けて道とは言えない急斜面を走っていった。運転手のうまいハンドル捌きであるが、ランドクルーザーで無ければ出来ない芸当と感心した。 

 昼過ぎに戻り、昼食。3時半からツアンダの町外れにあるトリン寺に詣でて見学。広いお寺で、一箇所のお堂はきれいな壁画、仏像が残っていたが、後は文革時代に破壊されたとのことで、大きな土くれの塊がかってお堂やストウーパがあったことを示していた。

9月18日:ゲゲ王国のトンガ遺跡、ドウンガ遺跡を見学
  7時半、朝のお茶。8時朝食。9時出発。車はダートロードの中を約80km離れたゲゲ王国時代の2つの遺跡に向かった。道路はあるが、崩壊個所を避けて横の川底を進んだ。ここも随所で道路工事がされていた。渓谷沿いの道でアメリカのアリゾナやネヴァダの砂漠の中の道と似ている。丘を上がった展望台で停車。下にはグランドキャニオンのような渓谷が広がっていた。広くて雄大な景色だが出来た年代は新しく2300万年前だとか。遠方には雪を被ったヒマラヤの山々が見えるそうだが、今日は曇っていて見えない。

 その渓谷沿いに下りていくと、谷底は平地が広がり麦畑となっており集落があった。ここの集落のはずれの丘の上に多くの洞窟があるビアンカ遺跡がある。仏画、壁画のある洞窟、瞑想に使われたと言う洞窟。一番上にはゲゲ王国の王様が住んでいたと言う城があったが、崩壊が激しい。


   

 車でしばらく行き、草原で昼食。少し車で行った後、急な丘を歩いて上り洞窟内にあるドウンガ遺跡を見学。最初の洞窟内の壁には極彩色のマンダラ。2番目の洞窟には仏像の絵と天井には大きなマンダラ。壁の背景の青色は16世紀以後のものとのこと。

 遺跡の見学を終えて4時前にホテルに戻った。

919日:ツアンダ−アリ(車による移動)
  6時半起床、7時朝食。まだ暗い。風邪が直らず体調不良。8時出発。10時前、標高4700mであたり一面雪の原で停車。雪原をヤクが歩いていた。峠の手前で雪が多くなり通行可能かどうか停車してチェック。積雪量は1015cmくらい。

 ブルドーザーが道を整備していた。どうにか雪混じりの泥んこの道を上がりきって5380mの峠(チョコルラ)に達した。一旦、峠を下がった後、次の峠(ルンコツオラ、5320m)を越えた。ここでも道路工事中。


       

 峠を下って、営業をしているテントの中で一時前に昼食(4590m)。長い下り坂を下ってチベット−ウイグル間の主要道路である舗装道路に入った。しばらく行って入域許可書、パスポートチェックの検問。さらに、チャマラ(峠、4710m)に至る。峠を下りしばらく行くと、再度検問所でチェック。

 検問所を通過して車はアリの町に入り、ホテル(ホーリーマウンテイン ホテル)に3時半到着。アリは西チベットの首都機能を持っている町だとのことで大きい。近くには空港も出来たそうで、新しく開発が進んで近代的な町になっていた。

920日;アリ−トマル テントサイト(車で移動)
  8時、町の中華料理店で朝食後、入域許可が公安(警察)から下りる10時までホテルで待機。無事に許可が下りて1040分出発。

 途中、ルトクの町で昼食。岩山の間から雪を被った高峰が遠望された。岩山の間の平原はブッシュやたけの低い草原が延々と続いている。しばらくして左側に水鳥が浮かんでいる湖(班公湖、4270m)の横を通り過ぎた。

    

 その後は似たような平原が延々と続くダートロードを進み、本日宿泊するテントサイトに3時半に到着。標高4270mで、近くに小川が流れている広い草原の気持ちの良い所であった。ここにスタッフがテントを設営してくれてテントでお茶。

 夕食後、サンサンからトマルまで食材、テントなどをトラックで輸送し、テント設営、料理などをやってくれたスタッフ4名との送別。お礼をし、彼らに感謝の意を表した。彼らは明朝テントを撤収して帰るとのことであった。

921日;トマル−三十里営地
  6時に目が覚める。霜が降りていて寒い。室外は−5度で、テント内でも−2度。まだ暗く、天の川、オリオン座周辺の星が良く見えた。

 7時朝食。まだ暗い8時出発。815分トマルの町。ここにも検問所がありチェック。道は長い上り坂になり峠(スミシラ、5355m)に達した。寒い、遠くには雪の山が遠望された。

    

 少し下った後、また上り。峠には界山辻坂の標識があり、標高は5240m。峠を下り湖が見えるところで停車。

 この付近はアクサイチン地区と呼ばれ、中印国境紛争があった地域で、インドが知らない間に中国が道路、通信線を建設して中国の実効支配地域になったとのことである。車は小さい湖が点在する横を通り過ぎて行った。あたりは標高5000m位で、生えている草も少なく荒涼とした景色が続き人家は全く見られなかった。

 道の途中で停車し、車中で昼食となった。5200mの峠を越えて4時前に大紅柳灘に到着。ここは街道沿いの小さな町。宿兼レストランでお茶とうどんを食べる。結構うまい。

 休憩後、車をさらに進め725分三十里営地に到着。もう、チベット地区は離れて、新彊地区に入っていた。ここは名前からすると軍事上の要地らしく、軍の施設は非常に立派であるが、それと比べてレストラン、ホテルは貧弱で、何件が並んでいた。そのうち上等そうな一軒が今夜の宿。大型トラックが一杯停車していた。風が強く土埃が激しい。

 夕食は8時半から、漢族の主人が一人で作ってくれたおいしい中華料理。

922日:三十里営地−カールギリック(車で移動)
  6時半お茶。7時朝食。735分出発。まだ暗い。途中4900mの峠を越えて、川沿いの渓谷を下っていった。

 数等の駱駝が草を食んでいた。もうここがチベットで無くウイグル人の領域に入ったことが分かる。途中のマザルという町でお茶を飲み、昼食の麺を食べる。ゆっくり休んだ後、車は山道を上がった。4930mの峠は寒い。

 峠を下りしばらく行くと道路工事中で停車。そのうち、舗装道路の下り道となり渓谷沿いの道をほぼ降りきった所に立派な検問所があった。

    

 チベットと新疆ウイグル自治区の境界の検問所だそうで、非常に厳しいチェックがなされていた。一人づつパスポートと入域許可のチェックを受けた。空港でのパスポート、出入国のチェックより長い時間をかけてゆっくりとやっていた。広くない検問所の部屋の中、厳しい顔つきをして銃を持った武装警官がうろつきながら威圧、監視している所で、チェックを受けるのはあまり良い気がしないが、面白い経験であった。

 チベット人がウイグル地区に行く場合あるいはウイグル人がチベット地区に行く場合でも同じように検問所でチェックを受けるとか言っていた。中国政府はチベット人あるいはウイグル人をこのような威圧的なやり方でしか抑えることが出来ないのだなと実感した検問であった。

 その後、一旦下った後、山道は急峻な渓谷沿いに上がりクチラ峠(3280m)に至った。峠からの下りで多数の軍のトラックとすれ違いこれをやり過ごすため停車。

 4時過ぎには標高2000m近くになり、岩山と草原からポプラ並木が並んだ町の中を通り過ぎた。町の人の顔つきは東洋系と異なり、アーリア系のヨーロッパ人に近い。ここがウイグル人の地域であることを実感した。

 もうあたり一面平原で岩山は見られなくなった。平原の中の舗装道路を進んでいくとだんだん林、工場などの建物が増えてきた。建設中の建物も多い。

 片道3車線の立派な道路となりアーバンの町に入った。西域南道の砂漠の町ホーテンに至る起点の町である。通りは中国風、ウイグル風の家、商店が混在していて面白い。

 さらに進んでカーギリックに入り、バス停の隣にあるホテル(トランスポーテション ホテル)に到着。今までのホテルと異なり近代的なホテルできれいで整っている。

 休憩後、通りに出て少し町を眺めた。住人は殆んどウイグル人のようで通りには色々な屋台の店が出ていた。

 夕食はポロフ(ピラフ)とシャシリ(シシカバブ)。おいしいが多すぎて食べられない。

923日:カールギリック−カシュガル(車で移動)
  6時に目が覚め、6時半起床。7時半にモーニングコールで、8時に近くの昨晩夕食を食べたレストランに行き朝食。まだ暗い。これから準備をするらしくマントウ、ポロフの朝食が出てきたのは9時頃。

 945分出発。かってのシルクロードの道で快適な舗装道路を車はひた走る。道の両側は、ポプラ並木,桑畑、果樹園、野菜畑が連なっており緑が濃い豊かな所であることが分かる。この道の両側にはさらに人家、工場、商店が点在していた。建設中の建物も多い。ヤルカンドを過ぎて、イエンギサーの町はずれの手工芸品の刃物を売っているお店が立ち並ぶ傍らで停車しお店に入って見学。

 その後、市内のレストランで昼食。ラグマンとのことだが、腰の強いうどんにスパゲティーのソースがかかったようであった。この町も結構大きい。見かける人は殆んどがウイグル人のようであった。

 3時過ぎにカシュガルの町に入った。カシュガルは近代的なビルが立ち並んだ大都会であった。さらに、町の再開発、新しい建物の建設が随所で進んでいた。ウイグル人の他、中国人(漢民族)も多い。現在はウイグル人の方が多いそうだが、近い将来はより多くの中国人が移住して来て中国人の町として変容、発展して行くのだろう。

 3時半にホテル(キニバクホテル)に到着.近代的な高層ビルのきれいなホテルだが熱い湯が出ず、ぬるい湯で我慢してシャワーで久しぶりに髪の毛を洗った。

 ホテルのレストランで夕食。雷が鳴り電気が消えてろうそくを灯しながらの夕食。夕食後、世話になったガイド、ランクルの運転手と送別とお礼。Kさんが代表して挨拶。

924日:カシュガルーウルムチ
  午前中はイスラム教の寺院の清真寺、丘の上にある入り組んだ旧市街(ここも観光地となっていた)を見学。その後はバザールでナッツ類や乾した果物などの買い物をしながら見学。イスラム料理と中華料理のミックスと言われる料理で昼食。

    


     

 3時にウルムチに飛行機で向かうため空港に向かった。ウルムチで一泊した後、翌25日に北京経由で帰国の途についた。北京では関空に向かうお2人と別れて成田行きの飛行機に搭乗し、夜9時半に成田到着。

参加者の皆さん、楽しかったですね。無事にカイラスコルラが出来て良かったですね。吉田さん、有り難うございました。



チベットで見た野生の花

今回、旅行したのは標高3000〜5000mのチベット高原地帯が大部分であった。標高が高いのと風が強いためか、背の高い木、林は全く見られず、ラサ周辺の農耕地帯を除いてブッシュや背の低い草しかが生えていないやせ地、岩山が殆んどで植相は貧弱であった。しかし、日本の高山植物に似た背の低い野生の花が数は多くないが、随所で見られて興味深かった。また、蝶は、25日間で見たのはモンシロチョウのようなシロチョウと黄土色のジャノメチョウの2匹だけでとても貧弱、やはり自然条件が厳しいと感じた。
    

    

    

    




終わりにあたって

  25日と長い旅であったが、無事に楽しく終えることが出来たのは添乗員の吉田さん、現地スタッフに負う所が多い。冒険旅行と言われたが、コックつきの大名旅行でもあった。改めて感謝するとともに、苦労しながらも一人旅でやって見たかったなと言う思いも少し湧いてきた。

今回のチベット旅行で感じたこと

チベット仏教について

  ポタラ宮とかジョカンなど訪れた主なお寺は宗教施設と言うより観光施設として賑わっているようで、そこにいる僧侶も観光施設の従業員のような雰囲気が感ぜられた。政治的な弾圧もあいまって、これでは、心ある僧侶はインドなどに亡命していくのは当然と言う気がした。現在、チベット仏教の中心地はチベットを離れてインドやネパールに居を移している。少しばかりは、チベット仏教の精神性、生と死に関する考え方に関心があった者として残念な気もした。もっとも庶民のチベット人の信仰は5体投地している人などゆるぎないものを感じた。

  自分の人生の残りはそんなに長くないし死は避けて通れない。これを機会にチベットの死者の書を読んで少しは考えてみようかとも思った。

  ある寺でインドに亡命した指導的な高僧の若い頃の写真が飾ってあった。私が持参した本の中で見たばかりの写真と同じだった。しかし、そのお寺の僧侶、ガイドを通してのその写真の主の説明は別であった。ダライラマ14世の写真を飾ることは中国政府により厳しく禁止されているそうだが、この高僧の若い時の写真はこっそりと飾ってあったものだろうか?

ゴミについて
  一月にエジプトの地方を旅行した時もそうであったが、チベットでも新彊でも辺境の町に多くのゴミが放置されていた。町外れの川沿いにはゴミが溜まっていた。昔のように木綿とか毛などの天然繊維の製品や木製のものならいずれ分解して土に戻って行くだろう。しかし、辺境の町でも捨てられるゴミはプラスチック製品、ポリ袋、ポリエステルなど合成繊維で出来たものが多い。タルチェの旗も安いポリエステル製である。これらはすべて自然に分解する事無く残って行く。ある意味では野糞などは水に流れ分解するので問題にならない。しかし、捨てられたプラスチック、合成繊維は?これらの地域はさらに開発が進んで人口が増えていくだろう。ゴミも増えていくだろう。

政治的な問題
  今回のチベット旅行はカイラス巡礼、素晴らしいゲゲ遺跡などとともに政治的なことが気になる旅でもあった。

  成都の空港の書店では抗日戦争や南京虐殺の本が置いてあり、シガツエのホテルのロビーに置いてあった新聞を見たら一面の全面に抗日戦争65周年記念の記事が載っていた。中国政府(メディア)にとって大衆の不満の矛先として日本は都合の良いターゲットで無いか、このためには抗日戦争の記憶は何時までも鮮明に残しておく必要があるのではと、最近の尖閣諸島の事件、軍事施設に入り込んだと言う日本人逮捕の問題、あるいはサッカーの国際試合での中国人観客の日本選手への嫌がらせなどの新聞記事を読んで、気になった。

  また、チベットやウイグルの辺境地区に不釣合いに立派な軍や公安警察の建物、過剰とも思える警備体制が目に付いた。このような施設の写真を絶対取ってはいけない。もし見つかったら大変なことになると添乗員の吉田さんから注意を受けた。

  一方、民族団結、祖国統一、愛国などに類するスローガンの大きな看板、横断幕が目に付いた。チベット、ウイグルの独立運動、暴動、チベットでの人権活動家の運動などを抑えるためにやっているのだろうが、これではチベット人、ウイグル人の多くは不満を持つだろうと言う気がした。今回我々の旅行をサポートしてくれた現地スタッフは全員チベット人であった。車を運転してくれたチベット人運転手の一人は中国の悪口をつぶやいていた。

  圧倒的な武力、威圧感でどうすることも出来ない。ハインリッヒ ハラーの「セブン イアーズ イン チベット」やラマ ケツアン サンポの「知恵の遥かな頂き」に書かれている 19501960年代の中国人民解放軍のチベット侵攻の惨状は事実だったのであろう。

 今は、中国経済は飛躍的に発展して西部大開発が進行し、チベットの辺境地域も随所で盛んに道路建設、舗装工事、町の再開発、商店、ホテルの建設が行われていた。そのうち大量の漢民族が移住してきて多数派になれば名実ともに中国領として安定化するのは時間の問題と言う気もした。