4-1-8.研究の評価、研究費の配分システムについて思うこと

   最近は研究費の配分について選択と集中が進んで、研究費が豊富にあるところとそうでないところの格差がありすぎるように思う。国立大学の独立法人化以後、いわゆる公費はどんどん減額されて研究にまわせるものは少なくなってきている。研究室に卒論生、大学院生を受け入れて平均的な研究をする場合でも、科学研究費などの外部資金なしでは成り立たなくなってきている。公費でベースとなる研究費をカバーできないなら、科学研究費の一件あたりの額は多くなくても採択率をもっと上げることが必要だと思う。本当に必要なものなら、高額の研究費を出す必要はあろう。しかし、高額の研究費(公的資金に基づくもの)を使った研究については、さらに厳しい事後評価をすべきだと思う。その上で,成果が使った研究費に見合ったものであるかどうかをきちんと評価し、場合によってはその研究費獲得者には次に高額の研究費を出すことを止めるべきだと思う。
   同一人物があちこちのところから高額の研究費を獲得しているのを見聞きするに付け、なんかおかしいような気がする。最近は同一年度の複数獲得するケースは無くなって来ているようだが、次から次へと切れ目無く結構高額の研究費をもらっているケースがある。1億円の研究費を1人で使う場合、10人で1000万円ずつ使う場合、100人で100万円ずつ使う場合とで、どのような場合が全体として、研究を活性化し効果を上げるのか考えるべきだと思う。1億円の研究費を使った人が1000万円の研究費を使った人より成果を上げるのは当然である。そこで、次も1億円の研究費を使った人に研究費を出すと言うことはいかがなものか?高額の研究費(しかもこれらは間接経費と称してさらに上乗せがある場合が多い)の場合、使った資金に対してどれくらいの成果を上げたかというコストパフォーマンスもきちんと評価すべきかと思う。単に一流の国際学術誌にいくつ載ったかとか、インパクトファクターがどうかだけで評価して欲しくない。

また、もうひとつの視点として研究を通しての教育がある。未熟な学生を大勢抱えて研究室を運営する場合でもやはり研究費はかかる。その場合、レベルの高い研究を遂行するのは難しい。一方ある程度出来上がった博士研究員を複数雇って研究を遂行するなら、レベルの高い研究が出来るのは当然であろう。未熟な学生を、たとえレベルが高い研究でなくても、研究を通して育てるなら社会全体を考えれば、より良い研究費の使い方かもしれない。

評価者は出来るだけ公平に評価しようとする。これが実は曲者だと思う。公平と言うことはその時点でオーソライズされているあるいはオーソライズされつつある分野、研究者に高い点をつける傾向にある。真に革新的なものや人は、その時代の多くの人に高い評価を受けにくいことを注意すべきである。特に、専門家、権威と言われる人はこれまでの自分の深い経験知識をもとに評価するのでこの傾向が強いと思う。この分野の専門家、権威が評価するので、きちんとした評価が出来るというのは、ありきたりの評価をしていることにならないだろうか?そこで、真に革新的なものを排除していないだろうかと考えてみる必要がある。

私自身、かって、科学研究費の審査をやったことがある。審査員は誰でもその審査が何らかの意味で評価されるとなると厳正公平を考える。そこで、これまで評価が固まっている研究者、研究分野、研究内容に高い評点をつけることを感じた。いつも高額な研究費を取っている人の申請書は確かに魅力的に書かれている。私が高い評点をつけた申請は他の審査員も高い評点をつけたようで採択されているケースが圧倒的に多かった。でも、やはりありきたりの評価でなかったかという思いはある。

さらに考えるべき事は研究費を出すFunding Agencyの考え方である。アメリカの場合、NIHNSF,  NASA, エネルギー省、軍などがそれぞれ独自のフィロソフィーでそれぞれの分野に応じた研究費の出し方をしている。ところが、日本の場合、いろいろのFunding Agencyがある研究、ある研究分野(例えばナノテク)が大事だとなると競って同一の研究分野に高額の研究費を出し、それ以外の分野は無視される。私が少しは関係していた生命の起源に関係する研究分野をアメリカではNASAが高額ではないがずっとサポートしていた。そこで、この分野にはそこそこの研究者がおり活発に研究が行われてきた。ところが,日本ではどうだろうか?一般の人には興味ある課題で一般向け科学雑誌の“ニュートン”には時々特集記事が出ることはあるが、科学者にはあまり関心をもたれていない。研究費の選択と集中がこの分野に対してどのような影響を与えるか危惧を感じている。

また、研究の必要性がそれ程高くないと思われていた場合でも,ある時になって必要になるときがある。そのとき、必要があるから始めますでは遅い場合があろう。私の中学時代の親友の大槻公一君は鳥取大学で鶏のウイルス病の研究をやっていた。20年以上前に会って彼から彼の研究の話を聞いた時、地味な研究をこつこつとやっているなと言う印象を受けた。しかし、鳥インフルエンザの問題が出てきた時には彼の研究は大きく脚光を浴び、テレビ、新聞で彼の名前とコメントを見ることが多くなった。その時、その時で高い評価を受けているものだけが重要だとは限らないと言う例のように思う。