4-1-3. 牧島研での卒研の思い出

研究なる活動をスタートすることになるのは、学部4年生の卒業論文の研究、実験であろう。そして、その最初の経験が後の活動に大きな影響を与えることになる。良いにつけ、また悪いにつけ、40年前、牧島研で卒論をやったことがその後の私の研究に大きな影響を与えている。現在は、牧島研で卒論としてやった研究とは全く異なる分野の核酸関連の研究をやっているが、教えて頂いた研究に対する考え方、取り組みかたは今でも生きている。それは研究に限らず、何事にも通用する気がする。

牧島研に卒論生として入ったのは昭和39年である、丁度40年前になる。当時の牧島先生は現在の私より若いことになる。私は群馬大学の研究室で毎年卒論生を指導しているが、当時の牧島先生より威厳も学識もずっと少なく、忸怩たるものがある。当時、牧島研に入った同期の卒研生は6名である。スタッフは牧島先生の他、助教授の平井先生、講師で研究室のコロキウムなどに出席されていた山田先生、助手の平木さん、落合さん、技官の後藤さんがおられた。卒研生のテーマは実質的には平井先生、平木さん、落合さんが出され、実際の実験指導などは平木さん、落合さんと大学院生であった平野さんがあたられたように記憶している。ところが、牧島研の卒研生に対する伝統的な指導のやり方が色濃く残っていた。その指導のやり方は、よく言えば自主性を重んじる、悪く言えば自由放任であった。そこで、同期の6人とも卒研のテーマは頂いたのだが、どうやっていいのか判らないこともあり、何も言われ無いのを良いことに、半年近く何も実験をやらないでいた。牧島先生を始め、研究室の先生方も卒研生に対して、どうやれとか、やらなきゃ駄目だとかおっしゃらなかった。その年は丁度、東京オリンピックがあった年で、確か10月にオリンピックがあったように記憶している。オリンピックが終わった10月下旬になっても6人とも卒論の実験を何もしていなかった。オリンピックが終わったある日、さすがに見かねたのだろうが、僕の卒論の実際の指導をしていただいた落合さんから「君は一体卒論をどうするつもりなのか、相談に乗ってやるから、実験計画を立ててきなさい」と言われた。そこで、関連文献を改めて詳細に見て自分なりに計画を考え、落合さん、平井先生と相談して実験の方針計画を立てた。実際の実験をやるにあたっては先輩の池上さん、平本さん、上田さんに教えて貰って卒論の実験をやりだした。他の同期5も同じようであった。卒論の実験をやり始めて少し経ってから実験、研究のおもしろさが判りかけてきた。そこで、その年の暮れから翌年の1?2月は、毎日夜10時過ぎまで実験をやった。10?11時過ぎに実験を終えた後、同期の連中(特に小林君)や先輩の平本さんと良く一緒に飲みに行ったように記憶している。忙しいが、妙に楽しく充実感を覚えた毎日であった。

卒論発表会は3月に入ってからのある日だったと思うが、牧島研の発表は最初であった。確か、僕は「工化、合成のトップを承りまして、卒論発表をいたします」なんて言ってから始めたように記憶している。発表は大きな模造紙にマジックインキで書いて耳を付けて表示台に貼り付け、一枚一枚はずしていくという、現在では考えられないやり方であった。卒論の実験を始めたのが非常に遅かったし、細かい実験指導も無かったので、牧島研の卒論発表は全員、他の研究室の連中の発表より劣っていたように思う。しかし、私が牧島研でこのような指導を受け、卒論をやった事が、その後自分で研究をやるにあたって大きな糧となり、良かったと思う。

卒論発表会が終わった後に、牧島先生が卒論生6人に言われた言葉を今でも良く覚えている。「研究とは他人に言われてやるもので無い。自分でやるものです。他人に頼ってやるようでは駄目です。」

不肖の弟子としては、学生の指導に際しても、なかなか牧島先生のようにはいきません。結局、牧島先生の趣味であった山登りだけは受け継いで、結構ハードな山登りを楽しんでいる。