4-1-1.思い出に残った人


  2人のジャック
   2人のジャックにあったのはもう35年前の事であるが、2人との出会いは今でも良く覚えている。2人とも、私がアメリカのソーク生物学研究所でポスドクとして働いているときにお目にかった分子生物学者でフランス人である。2人とも私に強いカルチャーショックを与えてくれた。
 
  1.ジャック ニニオ

   そのうち、一人のジャックはジャック、ニニオで、彼とはソーク研究所のオーゲル研究室の実験室で隣り合わせの実験台で実験をしていた。私がオーゲル研でポスドクの研究をスタートした1973年9月から、彼がオーゲル研を離れてフランスに戻った1974年3月までの7ヶ月ほどの間のつきあいであった。その実験室にいたのは私と彼の2人だけであり、実験室の隣の小さなオフィスも彼と机が隣り合わせで2人きりであった。そういうわけで、もともと無口で黙々と実験をやる私でも彼とはいろいろ話をし、それなりに仲の良い友達であった。彼は、少し粗野なとこがある情熱家で、フランス人らしい皮肉屋。頭の良さは抜群で、私がこれまであって話をした知人、友人の仲でも頭の良さでは5指の仲にはいるのではと思う。

   彼の思い出をいくつか。
   
その1
   1973年9〜10月にはイスラエルとアラブ諸国の間で中東戦争が勃発した。その戦争の勃発した次の日だったか、2,3日後だったか、ジャックとアメリカ人のポスドクのフレッド(彼は1973年10月にオーゲル研を離れた)が研究室全体に響き渡る大声で怒鳴りあっていた。アメリカに行って一月くらいしか経っておらず、英語の聞き取りも殆ど出来なかった私でも彼らが中東戦争に関して激しい言い合いをしていることだけは解った。どうやら、フレッドは友達にユダヤ人がいて親イスラエルで、ジャックは親アラブで口論しているようだった。ジャックはアラブ、イスラエル、中東に対するアメリカのやり方、アメリカ人の考え方も含めて激しく非難していた。この口論はフレッドの最
後のわめき声で終わった。「アメリカについてそんなに悪くいうなら、何でアメリカにいるだ?フランスに帰れ!(“Go home France, Jaque!”)」

   後に、ジャックから聞いた事だが、彼のお父さんは高校の先生をしていたのか、スエズ運河の技師だったのか忘れたが、エジプトで働いており、彼もエジプトで育ったので、アラブ人にシンパシーを感ずると言うことだった。アメリカは世界中で、強い力を発揮して影響を及ぼしているのに、アメリカ人はそれを認識していないと言っていた。また、フレッドについてHe is a best friend, because I can say anything to himと皮肉を込めて評していたのが印象的であった。

 その2.
   彼は非常に情熱家で、ある意味で愛国者である。フランスでは彼の学生時代の40年前は、国民皆兵制で若者は1年間だったか2年間だった理科系の学生を除いて兵役の義務があったとのことである。彼はもちろん理科系の大学、大学院専攻で兵役は免除されるのに、わざわざ大学院を休学して兵役についたと言っていた。何故、そんなことをしたんだと言う私の問いに対して、彼はこう答えた。軍隊と言うところがどういうところか経験して知りたかった。また、いざという時には、銃を持って立ち上がるんだと。彼はこの軍隊時代は輸送部隊におり、大型の軍用輸送トラックを運転していたとか。

 その3.
   彼はもともと数学を専攻した数学者であった。ところが、当時勃興してきた分子生物学に興味を持ち、数学によるモデル化によってこの分野の問題を解析しようと考えていたようである。ボスのオーゲルとともに実験室の壁にある大きなホワイトボードの所で、いろいろ絵や数式を書きながら大声でやり合っていたのが印象的であった。激しいやりとりに2人はけんかでもしているのかと思った。その大声の議論の最後に、ボスのオーゲルが「それはよいアイデアだ。ジャック、その実験をやらないか」と言った。ところが、ジャック「それはテクニシャンの仕事で、ドクターの仕事ではない」と答えた。オーゲルはそれに対して怒るわけでなく、あーそうかと言う対応。彼らは研究に関連した知的議論を楽しんでいただけかも知れない。

彼はオーゲル研ではRNA分子の非酵素的な複製、進化を検証する実験をやっていた。実験は大きらいだと言っていたが、その割には緻密な実験をやっていた。ところが、実験をやった後の後かたづけはせず、実験台は散らかしたままで、隣の 僕の実験台にまで侵入してきて実験をやり出した。僕は自分の実験台の上にカラーテープを貼り、このテープからこちら側には入ってくるなと宣言してやっと彼の侵入を止めさせることが出来た。

その4
   当時、ジャックの家族は奥さんと小さな男の子、女の子の4人であった。奥さんも分子生物学者で、2人の子供をベビーシッターに預け、UCSD(カリフォニア大学サンディエゴ校)でポスドクとして働いていたようである。1973年の秋に、彼らのアパートに我々夫婦を呼んでくれた時と、逆に彼らを我々のアパートに呼んで一緒に食事をした時にお目にかかっていた。ところが、その年の暮れだったか、新年だったか忘れたがクリスマス、新年の休暇のある日、彼が電話で我々の都合を聞いた上で、憔悴した顔付きでわれわれのアパートにやってきた。話を聞くと、彼の奥さんが子供をベビーシッターに預けてにメキシコに行ってしまったと言うことだった。日本人の感覚からするととんでもないことで、びっくりするやら、同情するやらであった。彼が帰った後、「奥さんも奥さんだが、ジャックにもそれだけの理由があるようなが気がする」と私の妻が言ったように記憶している。「それにしても、フランス人のやり方にはついていけないね」と言い合ったが、現在の日本はフランスに追いついたかも知れない。

   彼がフランスに帰る3月の曇り空の日、僕は彼をサンディエゴ空港まで車で送っていた。「ここに来るときには家族4人だったが、今、たった一人でフランスに帰る。何と言ったら良いか」と寂しそうであった。奥さんとは離婚することになったとかで、見送りに来ていなかった。

その年の7月、僕は夏休みをとって妻とヨーロッパ旅行をした。ジャックに手紙を出してパリで会うことにしていた。パリのオルリー国際空港に降り立った時、ジャックが新しいガールフレンドを伴って迎えに来てくれた。ジャックもやるなーと感心した。その後、パリの彼の知り合いのアパートに泊めて貰った後、彼の運転する車でロワール地方のお城巡りに彼のガールフレンド、我々夫婦と一緒に出かけた。シュノンソーのお城のお堀で、彼らと一緒にボートを漕いだことなど今でも思い出される。彼のガールフレンド、エバ、はポーランド人で彼がいる大学でテクニシャンを兼ねた学生であったが、その後しばらくして彼らは結婚した。

その後、ジャックとは15年くらい前に、一度、国際会議でお目にかかった事があったが、研究分野が全く離れていった関係もありあっていない。パリ大学で視覚に関して理論的な観点から研究を進めていると言う。おそらく、エバと一緒に幸福に暮らしているであろう。

最近のジャックの著書
   最近は、彼とは全く音信不通であるが、彼の著書が日本語にも訳され、出版されたことを知った。彼の視覚に関する研究と関連するものだが、「錯覚の世界」という本である。さっそく買って見てみた。彼らしい皮肉めいた記述が随所に見られて、あいつ相変わらずだなと言う印象を受けた。その本の著者紹介の欄を見ると、彼は今、CNRSの研究員で高等師範学校の先生をやっているという。1942年生まれとある。そうすると、僕と同じ年になる。ソーク生物学研究所にいた時は彼の方が2〜3才上かと思っていたのだが。



 2.ジャック モノー
   もう一人のジャックはジャック、モノー。彼とはソーク研究所の所長のジョナス、ソークが新年の研究所のパーティーに自宅によんでくれたときにお目にかかり、話を交わした。既に亡くなっているが、分子生物学の分野で高名な人でノーベル賞を受賞されている。当時、ジャック、モノーはソーク研究所のアドバイザー(adjunct professor)の立場にあり、年に何回かパリから南カルフォニアのソーク研究所に来られていたようだ。新年の研究所のパーティーは毎年、所長がポスドクも含め、博士号取得者のみを呼ぶというしきたりであった。確か、その当時でもソーク研究所には博士号取得者は百数十名いたので、2日に分けて50〜60名ずつよんでいたようである。このパーティーの案内状が所長から来たので、一年前にこのパーティに出席した同室のジャック、ニニオに、昨年はどうだったと聞いたら、皮肉屋の彼は”Party of snobbish people.  Half dozen of Nobel-prize winners attended. などと言った。

当日、僕は妻と一緒にネクタイをきちんと締めて正装してそのパーティーに出かけた。日頃はラフな格好をしている研究所の研究者も,そのパーティーでは皆ネクタイを付けて正装している。その中で一人だけ、ジャンパー、ノーネクタイでラフな格好をしている人がいた。妙な人がいるなと言う印象を受けた。そのパーティーにはボスのオーゲルも参加していた。オーゲルが僕に「ジャックが来ている。紹介してやろう」と言って、紹介してくれたのが、そのノーネクタイの人、ジャックモノーであった。非常に気さくな人で、もう一人のジャックと同じくフランス人流の皮肉やさんという感じであった、ジャックモノーはその数年前に、「偶然と必然」という本を著している。この本はどちらかというと素人向けの科学書だが、非常に哲学的な内容を含んでおり、世界的に注目を浴び、ベストセラーになっていた。もちろん、僕もその日本語訳を読んでいた。しかし、英語の題名(もちろんオリジナルのフランス語版の題名も)知らなかった。そこで、僕はモノーにあなたの有名な本確かProbability and ----の日本語訳を読んで感銘を受けたと言うようなことを言った。オーゲルがその時それは Chance and Necessity だと言ったので、僕は「偶然と必然」の英語のタイトルが判った。その時、僕はモノーに「あなたのような高名な人に会えて話せて光栄だ」と言った。その時、モノーは以前日本の学会に講演で呼ばれていった事があると言って、次のようなエピソードを語ってくれた。「その時の会合(パーティー)では、自分(モノー)と話をする人の順番がどうやら決まっていたようで、次から次へと日本人のProfessorがやってきては名詞を差し出して(名刺を差し出す格好をしてくれました)、自分はどこの大学の教授で、なにを研究していると述べた。日本人はバックグランドが判らないと、話が出来ないようだ」と皮肉混じりに言われたのが強い印象に残った。彼はオペロン説や、アロステリック効果、たんぱく合成でのtRNAの役割(アダプター説)など非常に素晴らしい研究をやったノーベル賞受賞の学者であるが、非常に気さくで、どんな高名な人であろうと人間として同じであるというごく当たり前の事を実感、認識させてくれた。お目にかかり話したのはごく短い時間であったが強い印象に残っている。

後で、知ったことだが、ジャック、モノーは第2次世界大戦の時は反ナチスの闘士として戦っており、1960年代後半のフランスの大学闘争ではバリケードの中に入り学生と話し合ったとの事である。また、モノーはスピード狂で、真っ赤なポルシェを乗ってすっ飛ばしていたとか。

後に英語版のChance and Necessityを買って一部だけ読んだ。


 フランシス・クリック

本日(2004年7月29日)に、Richrad Murphyと言う人から、Francis Crick-in memoriumと言うタイトルのメールが来た。Richrad MurphySalk Instituteの最高責任者である。彼が親切にも、かって、Salk Institute に在籍していた者に、研究所の重要なメンバーで世界的に高名なCrickの死を伝えてくれたのであった。彼は大腸癌で昨晩無くなったとのことである。Francis CrickJim Watsonとともに50年以上前にDNAの2重らせん構造を見出した。この成果が後の分子生物学、バイオテクノロジーの発展の礎となったのは言うまでもない。この成果でノーベル賞を受賞されているが、DNA2重らせんの発見のいきさつを書いたWatsonが著した「2重らせん」という本の日本語訳を大学院生の時読んで、大きな感銘を受けるとともに、彼らがその業績を上げたときの若さに大きなショックを受けた記憶がある。Watsonは24才、Crickは30代前半の年齢であった。手元にあるCrickが著した「熱き探求の日々」の日本語訳の著者紹介を見ると、Crickは1916年生まれと書いてある。88才で亡くなったことになる。

Crickにお目にかかり、ディナーをともにして話を交わし、帰りがけに彼の運転する車に乗せて貰ったのは1985年の夏だから、もう19年前になる。
   その年の6月、僕はトロントで行われた2-5Aに関する国際会議に出席し、招待講演で2-5Aのラジオイムノアッセイの講演を行った。その後、3?4週間、当時2-5Aについての共同研究を行っていたワシントンにあるNIHPaul Torrenceの研究室で2-5Aのたんぱく質合成阻害活性のアッセイ法を教えて貰い, 持参したサンプルのアッセイを行った。一通りのアッセイを終わり、日本に帰る途中、サンディエゴによってSalK Instituteを訪れた。かってのボスのレスリーオーゲルにお目にかかり研究の話をし、2-5A に関する講演を翌日研究室で行うという打ち合わせをした。その後、彼はラホヤのシーフードレストランにディナーを招待してくれた。オーゲル研でポスドクをやった後、コロラドのトム チェックの所でポスドクをやった後、再びSalk Instituteに戻って研究室を持つことになった井上さん共々招待して頂いた。その際、レスリーはフランシスも一緒にと、Crickに電話して都合を聞いた。その結果、Crick、オーゲル、井上さん、僕の4人でディナーをともにした。4人でワインを1本だったか、2本空けて飲み、シーフードを食べながら、話を交わした。その席上で、Crickが意識や脳、夢に関する研究を行っていることを知った。英語にそれほど堪能では無いし、ましてや専門用語を良く知らない僕にとっては、オーゲルとCrickの会話になかなかついていけなかったが、それでも、夢はどういう時に見るか、夢には色があるか?などの会話にはどうにかついて行けたし、少しは自分の考えも言ったような気がする。あの二重らせんのCrick が夢について研究しているというのは以外であった。もっとも、その当時(今でもだが)最も大きな未解決の課題は意識とか、記憶とか、考えるとか、脳であり、それに取り組もうという彼のチャレンジ精神が感ぜられた。彼は当時69才であった。その時お目にかかって話して、Crickが非常に気さくな人、非常に頭の良い人、非常に率直な人という印象を受けた。ディナーの最後に、オーゲルと僕とで明日の講演の始める時間の確認をすると、横で聞いていたCrickは自分は化学には興味が無いので失礼すると言った。そこで、あー率直にものを言う人だなと改めて感じた。
   
   その時、僕はデル・マールに宿を取っていた。同じ方向に自宅があるCrickが彼の運転する車で送ってくれることになった。ワインを飲んでいたので酒気帯び運転である。彼の運転する車、メルセデスベンツの助手席に座って、ラホヤから海岸沿いに上がってUCSD(カリフォニア大学サンディエゴ)の前を通ってから、ジェネシーの交差点をトレーパインの通りに左折する。この辺は片道2車線で、中央分離帯にはユーカリの大木が茂っていた。回りは真っ暗だし、通っている車は少なかった。Crickは左折したとき、左側のレーンに入ってしまった。彼はイギリス人なので、車は左側に走ることに慣れていたし、僕も日本式の左側通行に慣れているので間違いと思わなかった。ところが中央分離帯のある片道2車線のはずなのに、対向車の明かりが見えた。その明かりを見て、初めてCrickも僕も左側を走っていることに気づいた。幸い車は少なかったし、片道2車線であったので、正面衝突はしないですんだが、肝を冷やした。次の交差点で右側のレーンに入り事なきを得、そのまま、宿に送って貰った。アメリカでレンタカーして車を運転するとき、左折する場合無意識に左側のレーンに入ってしまう事があるが、Crickの車に乗せて貰ったこの時の左側通行を思い出す。
    その彼も亡くなった。冥福を祈る。


 オーゲル先生とオーゲル研での思い出

       20071030に東京学芸大学の原田先生から、かってのボスのLeslie E. Orgel80歳で亡くなられたというメールが寄せられた。原田先生は私よりかなり後になるが、オーゲル研で博士研究員をやられてやはりオーゲル先生にはお世話になっておられる。オーゲル先生、あるいはオーゲル研での思い出を記して、追悼の辞としたい。

     Dr. Leslie Orgelはもともとは理論無機化学者で、金属錯体のLigand Field Theoryのパイオニアである。ルビーがなぜ赤くサファイアがなぜ青色なのか、フェロセンの構造がどうなっているのかなどの理論的解析は彼の業績である。しかし、30歳代後半から生命の起源の研究の分野に研究分野を変えて、主としてRNAの前生物的合成、非酵素的複製の研究を進められた。生命の起源に関してのRNAワールド説の実質的な提唱者でもある。

     私がLeslie Orgelの名前を知ったのは、金属錯体に関する理論的な研究者としてであった。大学院生の時にこのOrgelさんの書いた本(An Introduction to Transition Metal Chemistry: Ligand Field Theory)の日本語訳を研究室の皆と輪講をした。当時、日本語版「遷移元素の化学:配子場理論」が小林宏東工大教授の訳で岩波書店から出ていた。ポスドクでオーゲル研に行った時、この本のOrgelと同一人物かどうか彼に尋ねて見た。もちろん、同一人物だった。

     私は、1973年から12ヶ月を彼の研究室で博士研究員をやった。無謀にもその方面の知識、実験の経験が無かったのに、生命の起源の研究も面白そうだということで博士研究員に応募した。応募した何人かの先生のうちで、最初に受け入れをOKしてくれたのがオーゲル先生であった。最初に研究室に行って、同時に博士研究員を始めることになった韓国系アメリカ人の女性と2人でオーゲル先生から研究の背景、これからわれわれがやるべき課題などの話を伺った。しかし、専門知識も無く、英会話もほとんど出来なかった自分にはほとんど理解できなかった。オーゲル先生は生粋のイギリス人で抑揚のある典型的なイギリス英語に耳慣れなかったことも聞き取りがほとんど出来なかった理由でもある。1時間ほどの話が終わった後、先生から解ったかと尋ねられた。そこで、正直にほとんど理解出来なかった。紙に書いた論文があれば読んで理解できると答えた。あきれた顔をされて、彼の当時の関連する代表的論文、総説の別刷り2−3編持ってこられてこれを読めと言われた。そこで、その論文を読みやっと研究の内容、自分がやるべき研究を理解できた。その後の具体的な実験は同じ実験室にいた先輩のインド人の研究員のRanganathanに教えてもらいながら進めて行った。初めはオーゲルさんも、とんでもないやつを博士研究員として受け入れてしまったと思われたのであろう。契約は一年であると言うことを強調されていた。しかし、慣れてきて成果も出だして来た半年後にはもっと長くいないかと打診された。それ以上長くいると、当時職があった東大薬学部に戻れなくなるので、迷ったあげく帰ることにした。

     彼からは細かい実験のやり方などは全く教えて貰わなかったのですが(それ以前にやったことが無かった実験だったので具体的なやり方が解らず苦労しましたが)、研究の面白さ、その研究の意義、その研究をやる目的、研究をどう進めるべきかなどについては多くのものを学びました。毎日やってきては "Whats new?”とか”Any interesting results?”とか言われて、いろいろ話をしたのは30年以上前のことですが懐かしいです。初めは毎日、なにか新しい結果、面白い結果を出さねばいけないかとプレッシャーを感じて、遅くまで実験をやって結果を出したのですが、慣れてくると毎日やってきて"What's new?"などと言ってくるのは彼の挨拶みたいなものだとわかり、直接自分がやっている実験だけで無く、もう少し広く研究に関していろいろ彼と議論出来て良かったです。

     Orgelさんは金属錯体のligand filed theorypioneerですが、Woodward-Hoffman則にあるフロンティアー軌道の対称性が結合に重要であるとの概念を金属錯体の配位子と金属イオンとの配位結合で提唱しています。この提唱はWoodward-Hoffman則の提唱よりかなり前のことですが、彼の洞察力のすばらしさを物語っています。2?3年前にE.J. CoreyWoodward-Hoffman則のアイデアはそもそもCoreyWoodwardに話したことが基になっているとのコメントをC&E Newsに出して物議をかもしたことがあります。そのCorrespondenceで、Orgelがもっと早い時期に軌道の対称性について言及しており、Harvardでそれに関した講演もやったとのコメントがありました。北京の国際会議でOrgelさんに会った時にその話をして、もっと前にOrgelさんがそのアイデアを提唱していたのでは無いかと話しました。彼は当時、何人かの人が軌道の対称性が結合に重要であると考えていた。それを体系化したのがWoodwardHoffmanで彼らの功績であると話していました。さらに、Coreyがあんな事を言うのはsillyだと言っていたのが印象に残った

     ところで、うちの学生の2年生向けの少人数の教養ゼミをやった時、Jim Watsonの有名な”2重らせん”を読んで感想文とDNADNAの2重らせんに関する科学的なものを調べてレポートとして提出することを課題に出したことがあります。私も、大学院生の時にこの本を読んで以来、久しぶりにこの本を読んだら、この本の中にオーゲルの名前を見つけました。当時、理論無機化学者でありながら、DNARNA、タンパクなどにも関心があったことが良く分かりました。