南アルプス南部縦走中での事故顛末記 


事故の前段階

    8月末に天候が安定して来たので、久しぶりに南アルプス南部の、椹島から千枚小屋、悪沢岳、赤石岳、聖岳から茶臼小屋を経て畑薙ダムに下る4泊5日で縦走する計画を立てた。

    最近は3000m峰を縦走することが無かったし、歳を取って来たのでこのルートを行けるかどうか不安があった。小屋泊まりでいざとなれば延泊あるいは途中の赤石岳、あるいは聖岳から下れば良いかと考えた。

   歩くペースが遅くなって途中で避難小屋などに泊まることも有り得ると考えて、小型コッヘル、ガスバーナー、ガスカートリッジ、フリーズドライの食料、エアーマット、夏用寝袋なども持参したため、荷物は10kg近くになってしまった。小屋泊まりに徹して荷物を軽くするべきであったかもしれない。

   2日目までは順調に進み百間洞山の家に到達した。しかし、2日目最後の赤石岳からの下りは苦手の岩がごろごろしている急斜面で疲れが溜まり、足の筋肉痛が出て来た。

   3日目の8月29日は良く寝たので疲れは取れたものの筋肉痛は完全には取れなかった。それでも、3日目も問題無く進み、中盛丸山、小兎岳を越えて、稜線を少し行くと左側に矢印がペンキで書かれていた。この矢印通り行くとどうなるのだろうかと思い急斜面を下りて行った。5,6分下ると沢が流れていた。水場であった。急いで登り返したが結構きつかった。上がり切った所で矢印をよく見るとミズバと書かれてあった。この往復には10分以上かかり、疲れた上に筋肉痛が増して来た。よく確認して無駄な労力を使うべきで無かった。

   少し休んでから平坦な登山道を進むと小ピークに出た。このピークからの下りは岩がごろごろしている急斜面でストックを頼りに慎重に下ったが、足の筋肉痛で踏ん張りが利かなくなり転びかけた。ようやく短いが急な斜面を下り切り、兎岳手前のコルの平坦な登山道となった。やれやれとスピードを上げて歩きだしたのが間違いであった。
  

転倒事故


   ストックをついて歩調を早めた所で登山道上の石に躓いて前に転倒。不運なことに前面には大きな尖った岩があり、勢いがついていたので顔面が岩に激突してしまった。

   額が大怪我をして血が流れ出していることが分かった。急いで、首に巻いていたタオルを出血止めのため額に強く巻いた。被っていた帽子は大きく裂けていた。眼鏡は外れてツルが曲がっていた。眼鏡と帽子でけがの程度は少しは和らいでいたかも知れない。眼鏡のツルを曲げなおしてかけたら普通に見えるように思えた。

  緊張していたのとあまり痛みを感じなかったので、怪我は大したことは無いと考えてザックを背負ってストックを頼りにゆっくりと兎岳山頂まで上がった。

転倒事故の要因

  以下のような事故原因が考えられるが、10年前には起こり得なかったことで、やはり、年齢が一番の問題であろう。

1.高齢になり、体力、筋力、瞬発力、反射神経がかなり落ちているのに、その認識が甘かった。
2.1泊2日程度なら問題無かったかも知れないが、3日目で気づかなかったが、疲れ、筋肉痛が溜まっていた。
3.岩がごろごろした急斜面を慎重に降り切った後、平坦で楽な登山道で油断した。
4.事故の前に、ミズバまでの無駄な往復をして、その分体力を消耗し、筋肉痛を増やした。
5.足の筋肉痛で足を上げるので無く引きずる歩調になった。
6.入院中に眼科医から言われたが、眼が白内障気味で登山道上の石が良く見えず躓いた。

事故で救助依頼、翌日ヘリで救助されて病院に

   ようやく兎岳山頂に上がることが出来た。額からはさらに出血が続いたのでザックからもう一枚タオルを出して額に強く巻いた。そこで出血はほぼ止まったようであった。、これ以上自力で歩き通すことは無理だと思い、兎岳山頂でザックを下ろし携帯電話を掛けようとしたが通話圏外であった。

   幸いな事に丁度、単独行のNさんが通りかかった。そこで、Nさんに持っていた登山計画書のコピーを渡して、警察への救助依頼を連絡してくれるようにお願いした。とりあえず、頂上直下にある兎岳避難小屋で休むことにして、Nさんにザックを小屋まで運んでもらった。その後、Nさんは先に歩を進めて携帯電話が通ずる所で長野県警に救助依頼をしてくれた。

   長野県警では救助依頼の通報を受けて、救助のためのヘリを出してくれることになった。また、長野県飯田警察署地域課の担当者Kさんから登山届に記入してあった緊急連絡先へ電話があり、妻が事故の報を受けた。

  兎岳避難小屋は無人だが、きれいで居心地は良かった。一人で小屋で休んでいると、2人の方がやって来て具合はどうですか?と聞かれた。この方たちはNさんから私が事故で避難小屋にいると聞いて、様子を見に来てくれたのであった。怪我をした額にさらに3カク巾を撒いてくれて、御大事にと言って去って行った。

   避難小屋でエアーマット、寝袋を出した。また、T-シャツの上に、シャツ、薄手のダウンを着た。また、半ズボンを脱いで長ズボンに着替えた。体力温存のため、エアーマット、寝袋の上に横になって休んだ。

   夕方、ヘリの飛んでいる音がした。救助に来てくれたものと急いで小屋の外に出ると、ヘリの音がする方は雲が出ていてヘリの姿が見えない。やがて、ヘリの音が遠ざかって行った。条件が悪く、引き返したようだった。その後、雲は取れて見通しが良くなったが仕方無い。ここで一人夜明かしをする覚悟を決めた。

   暗くなる前に、持参の小型ガスバーナー、小型コッヘルを出してお湯を沸かし、フリーズドライの食料にお湯を入れて夕食を取った。後は横になって眠るだけ。何度も目が覚めたが、幸い、あまり痛みを感じなくて眠ることが出来た。

   夜明けと同時に目が覚めた。持参のレーズンバターパン2個とジュースで朝食を取り、寝袋で横になりながら救助を待った。幸い天候は良い様であった。しばらくすると、百間洞山の家のFさんが見えた。私の事故のことを聞いて、わざわざ、朝早く小屋からやって来てくれたのだった。一人でいたので心強かった。

   そのうち長野県警のヘリが救助に来てくれるのでその準備をしておいてくださいとの事で、必要なもの貴重品だけを肩にかけられる小型のバックに入れた。

   寝袋、エアーマットはたたみ、衣類、コッヘルなどはザックに収納し、汚れた手拭い、帽子、ゴミなどはポリ袋に入れた。これらは、後日回収しますとのメモをつけて小屋の片隅に置いた。

   しばらくして、9時前にヘリの音がした。やっと助かるとホッとした。ヘリは広いスペースがある兎岳山頂近くで5m位上をホバリング。ドアーが空いてロープが下ろされた。ロープを伝わって救助隊員一人が下りてきた。Fさんにお礼を言った後、救助隊員の指示に従ってロープにつなぐ装置を装着。ロープは巻き上げられ救助隊員と一緒にヘリのドアーからヘリに乗った。

   ヘリのドアーが閉められた。救助隊員の方は被っていたヘルメットを外して、山ではヘルメットを着用するようにと注意された。ヘリは南アルプスの山並みを眼下にして北方に進んだ。しばらく進んで街並みが見えてきた。

   到着したのは飯田市民病院。飯田市民病院はスタッフ、設備が充実したきれいで大きな病院であった。既に連絡が入っていたので、救急担当の方がストレッチャーを準備して待っていてくれた。

   この朝、救助のためにヘリが出動した他、悪天候でヘリでの救助が出来ない場合に備えて飯田警察署から担当官4名が徒歩で現地に向かったが、ヘリでの救助が出来たので引き返されたとの事であった。色々ご迷惑をかけてしまったが、有難いことである。


飯田市民病院で緊急手術、入院から退院まで(8月30日~9月7日)

  直ぐに事情を聴かれ、着ていた山用衣類をを病室着に着かえた。血で汚れていたT-シャツは切り裂いて捨ててくれた。その後、検査室で種々の検査を受けた。特にX-線CTによる顔面から頭部にかけての3次元CT画像は驚異的な技術で、怪我をした箇所の詳細が分かることを教えてくれた。医療、診断技術が大きく進歩していることを実感した。

  担当となった形成外科のT先生から検査の結果と当面の手術について説明を受けた。CT検査の結果、額の怪我をした部分は皮膚が残っている所もあるが、中央部は深くえぐり取られてれている。しかし、頭骨には異常が無い事。えぐれた額の部分には細かい石など異物がかなり入っていること。さらに、眼球を覆っている眼窩の端の骨が2か所で骨折しているとのことだった。

  午後になって、全身麻酔を受けて当面やるべき手術を受けた。額の怪我をした箇所にある細かい石など異物を完全に取り除いてきれいにした後、皮膚が残っていたところは縫合、傷のえぐれた部分は人口皮膜で覆うと言うでブリードマン手術を受けた。手術後、4人部屋の病室に入ってほっとした。

  その後、ほぼ一週間の入院が必要であること。さらに、えぐれた部分には皮膚移植手術、及び、眼窩の骨折した個所を基に戻して固定する手術が必要で、さらに長い入院、退院後の通院などを考えたら自宅近くの病院に転院してそちらで手術を受けた方が良いでしょうとの説明を受けた。さらに、眼窩が骨折したので眼球の運動障害がおこり複視が出て来る可能性が高いとの事だった。

  自分が考えていた以上の重傷で気が滅入って来た。緊張していたためにあまり感じていなかった痛みも増して来た。手術した後で化膿しないように点滴での抗生剤投与を受けた。

  夕方、妻が着替えの下着などを持って病院に面会に来てくれた。昨29日の事故の報を受けて、自宅を昼前に出て、ローカル線、長野新幹線、長野から高速バスで飯田市まで来て、飯田市で2泊した。翌31日には、入院に際して必要なものを購入して持って来てくれ、病院の入院手続きをやってくれた。さらに、飯田警察署にお礼かたがた、挨拶に行ってくれた。いずれも必要な事だが自分では出来ない状態なので本当に有難い。9月1日朝、妻は帰宅し、桐生に戻って市役所まで行き、私の健康保険証を再発行してもらいその写しを飯田市民病院までFaxで送った。

  31日頃から、それまで感じていなかった痛みが出て来た。特に後頭部がかなり強く痛むようになって来た。脳内出血が起こっていると危険なので、直ぐに脳外科の先生が診てくれた。その結果、脳内出血は無いので大丈夫だとの事であった。

   しかし、後頭部から首を支える筋肉の傷みが増して来た。むち打ち症のようなものかなと思ったが、翌週の月曜日の4日に、整形外科の先生に診てもらい後頭部のX線写真を撮った所、頚椎の一か所が端ではく離骨折をしているとの事だった。この痛みはそのうち治まるでしょう、はく離骨折は一か月もたてば自然治癒で治るでしょうとの事であった。首を支えるプロテクターを付けて貰った。この首プロテクターは簡単に付け外しが出来るので有難かった。この診断結果を聞き、首プロテクターを付けると後頭部の痛みが少しづつ引いてきた。

  4日の午後は、飯田警察署の地域課の山岳救助を担当されているKさんが病院に来られて、今回の事故の経緯やこれまでの登山経験などを聞かれた。やはり山に詳しい方で、他の山岳事故の話も伺ったりした。さいごに山岳事故に絡んで何か要望がありますかと問われて、今回救助して頂いて感謝の一言のみで、他に要望などありませんと答えた。  

  入院した当初は4人部屋の病室で、3日目には別の4人部屋に移った。ところが、こちらでは隣の人が大いびきであった。後頭部が痛い上に、隣人の大いびきでほとんど眠れなくなった。そこで、病室を変えて欲しいとお願いした所、差額ベット代を払えば個室がありますとの事で、個室に変えて貰った。差額ベット代は思った以上に安く、隣人に気兼ねをしなくて済むので有難かった。

  病院に入院するのは、45年前にスキーで足を骨折して以来だが、当時とは様変わりで良くなっていると実感した。飯田市民病院の医師、看護師、食事を作る管理栄養士などスタッフの皆さんは献身的に働いているし、病院の施設も素晴らしく建物も広くてきれいで、さすが、医療先進県である長野県の南部の拠点病院と感心した。

  特に、医師も看護師もすべて診察結果、体温、血圧などを直接パソコンに入力しているのが印象的であった。自分の認識不足であったが、医療分野はIT技術の導入がこんなに進んでいるとは思いもよらなかった。怪我をした頭部頭蓋骨周辺の3次元画像が印象的であった。

  病院は快適であったし、担当のT先生は信頼のおける良い医師だったので、このまま、飯田市民病院にいたい所であった。しかし、さらに、額のえぐれた部分の皮膚移植手術と眼窩の骨の固定手術が待っていた。これらの手術をやって退院後も長い間通院するとなると自宅近くの病院に転院する必要がある。

  しかし、これらの手術は形成外科の分野で、形成外科の手術が出来る病院は一部に限られる。妻に電話して形成外科のある自宅近くの病院を調べてもらったところ前橋赤十字病院が最も自宅から近いし、かって、人間ドックでは入ったことがあったので前橋赤十字病院に転院をお願いすることにした。

  転院に当たってはT先生、飯田市民病院の転院の交渉担当の方の尽力で、前橋赤十字病院に8日の朝行って入院することになった。そのために、7日中に飯田市民病院から一旦桐生の自宅に戻り、一泊して8日朝、前橋赤十字病院に行くことにした。

  妻は6日朝、車で自宅を出て北関東自動車道、関越道、上信越道、中央道を乗り継いで飯田ICを出て一泊した。翌7日に妻は車で病院まで来てくれた。退院手続き、支払いを済ませて貰った。思った以上に安かった。転院に際して、担当医師、病棟の看護師長の紹介とあいさつの手紙及びこれまでの検査、治療データを収めたCD一枚を頂いた。飯田市民病院の皆さんにはいろいろお世話になり、感謝に堪えない。

  妻の運転する車に乗った。初めは退院に当って自分も交代して運転をやれるかも知れないと思っていたが、複視が激しくすべてが2重に見えて運転どころでは無い。それでもとりあえず、家に戻れる事で嬉しかった。

残していた車とザックの回収

  自分の怪我以外に気になっていたのは畑薙ダム手前の畑薙海臨時駐車場に止めてあった車の回収と兎岳避難小屋に残していたザックであった。

  妻が3日、4日は晴れだと言う予報で、急遽、3日に車の回収のため新幹線で静岡まで行き、静岡からバスで井川まで行き一泊。翌日朝早くバスで畑薙夏季臨時駐車場まで行って車を回収。その車を運転して細い曲がりくねった山道を通り新静岡ICまで行った。この間、落石があり車に傷がついてしまった。その後、新東名、東名、圏央道、関越道、北関東自動車道を経て自宅までもどっった。妻は日頃細い山道や高速道路の運転は嫌いで、めったにやらなかったのにいざとなったら運転してくれ感謝に堪えない。この車があるから飯田市民病院を退院した後、自宅まで戻ることが出来た。


  避難小屋に残しておいたザックは最悪、来年まで置かせてもらって回収に来なければならないかなと考えたが、果たして来年ここまで来れるかかどうか不安だった。お金を出して回収することが出来るなら頼むのだがどうしようもない。事故の翌日避難小屋に来ていただいた百間洞山の家のFさんの話では、今年は荷揚げなどのためにヘリを運行する予定は無いので運べそうにないとの話であった。
  ところが、9月に入って東海フォレスト椹島事務所から電話が入り妻が受けた。ザックは百間洞山の家まで運んであり、いずれヘリで搬送します。荷物は着払いで送ります。との事であった。思いがけない話で本当に有難かった。9月中旬になってザックは宅急便で送られて来た。改めてFさんと東海フォレストに感謝する。


前橋赤十字病院に転院、入院して手術を受ける(9月8日~9月22日)

  
9月8日朝、妻の運転する車に乗り前橋赤十字病院に向かった。指定された救急受付で受け付けを済ませ、5人部屋の病室に入った。看護士さんがやって来ていろいろ説明を受けた。すぐ隣のベッドでは看護師さんが大声で患者に話しているがなかなか聞いてくれない様子。反対隣りは患者さんが大声でなんか言っていた。この状態意で長いこと入院するのはつらい。

  差額ベッドなら2人部屋で広い所も空きがありますとの事で、そちらに変えて貰った。同室者は首の脛骨を折ったようで重傷の方。食事を自分で取れない様であった。また、車椅子で動いていた。

  午後になって検査。血液検査の後、後頭部の脛骨のはく離骨折のX線写真を取った。整形外科医のU先生の診断でこれはいずれ自然治癒するので問題無いでしょうとの事。この時点で担当医師が整形外科医から形成外科医のH先生に変更となった。

  9,10日は土、日でただ病室で過ごした。11日の午前に形成外科に関する検査。特に、X線CTでの検査の結果、左目眼窩底ぼ骨折が確認された。また、額の部分がえぐれている。その後、眼科での検査を受け、左眼の眼球の動きが鈍く複視があることが確認された。

   11日午後に形成外科の主治医のH先生から12日に手術をするとの説明を受けた。その後、麻酔科医による説明、次いで実際に手術を担当して頂いた若手女医のU先生から手術の詳細について説明を受けて、手術同意書にサイン。

   手術は全身麻酔で、額の深くえぐれた部分に全層植皮(表皮と真皮全層を含んだ厚めの植皮で肩の下の胸の上部皮膚を取って移植)、および左目眼窩底骨折部を整復してプレートで固定するとの事であった。埋め込んだプレートは生分解性の材料でいずれは治った後で分解されて吸収されるので再手術の必要が無いとの事であった。再手術など考えてもいなかったので有難い。医用材料の進歩に追うところが大きい事を実感。

   2種の手術は12日の1時頃から始まり、午後五時前に終わった。手術室では次の患者が待っていてすぐ次の手術の準備がされていた。お医者さんも大変だなと感じた。

   全身麻酔のお蔭で傷みを感ずることは無いが、どういう手術だったかも全く分からない。終わった時点で目が覚めると手術は無事終わりましたとの説明を受けて病室に戻った。痛みを関するようになった。手術後の抗生剤の点滴による投与を受け、トイレに行けない状態で丸一日ベットで横になっていた。左眼は手術後で覆われていた。

   翌13日にU先生から手術の内容の説明と今後の治療計画、入院の予定期間等の説明を受けた。退院は20日前後の予定で、その後は通院で治療を続けるとの事であった。22日に眼科検診が予定されていたので、その検診の後に退院をすることで了解を得た。

   手術の後で風呂に入れず、髪の毛も洗えない。ただ病室のベッドで横になっているだけで時間が経って行く。時々起き出して病棟の廊下を歩いて行くが複視が激しくて病棟の廊下を歩くのも一苦労である。妻が2,3日おきに来てくれて食べ物や着替えなどを持って来てくれて助かった。

   病院の食事はそれほどおいしい訳ではないが不味いと言う訳で無い。限られた予算の中で栄養があって出来るだけおいしいものをと苦労されているのだなと思うとなかなか残せない。

  手術から一週間後に、U先生による抜糸、順調に行っていますとの事であった。しかし、複視の状態はひどい。皮膚移植した所は神経が十ていないためであろうが、重いものが額に着いている感じであった。

  22日に午前中に眼科検診を終えて昼食を食べてから退院した。退院に当っては妻が退院手続、支払いを済ませてくれた。まだ複視が激しいが自宅に戻ってほっとした。

その後の経過、通院治療


  自宅に戻って3日後に、かかりつけの歯医者に行った。転倒事故で顔面を岩にぶつけた際、前歯が3本ほど折れていた。前歯の折れた歯も気になっていたが、ようやく措置量が出来るようになった。約一か月かかって、この折れた前歯3本は差し歯にして使えるようになった。

  9月中はおとなしく自宅で療養していたが、10月に入って気になっていた畑の農作業を再開した。9月一杯農作業をしていなかったので、畑は雑草で覆われていた。複視は以前解消されないが、雑草を少しづつ取りながら、カボチャ、落花生、サツマイモ、ゴマなどを収穫した。11月に入り、ほぼ以前同様に農作業を出来るようになった。

   10月中旬二なり手術から約一か月で、上方向、右方向の複視は治り正面は正常に見えるようになったが、左方向、下方向の複視は依然治らない。手術が終わった際に、場合によし眼球障害が残り、複視が残ることも有り得るとの説明を受けていたので、やや心配だが、複視は2,3か月後に治るでしょう、数年後に治る場合もありますとの事だったので期待して待っていようと思う。

   12月末には形成外科の最終検査の予定となっている。今後、以前同様に車の運転、山スキー、山登りが出来るようになるだろうか?

山岳救助保険、団体傷害保険、健康保険

  こんな保険は使うことは無いだろうなと思いながらも毎年払っていた掛け捨ての2つの保険が今回適応されることになった。
実際の手続きは妻がやってくれた。

  山岳救助保険は救助活動のみに支払われる保険である。今回は警察による救助活動だったので支払い義務は無いとの事であった。
そこで、保険会社から、見舞金として5万円が出るようになった。

  また、退職者団体障害保険は退職時に加入して毎年更新してきた保険で一年ごとの掛け捨てであった。
手術、入院の費用のかなりの部分がこの保険でカバーされることになった。

  しかし、一番大きなのは国民健康保険による支払である。これまで毎年、国民健康保険でかなりの保険料を納めていたが、お医者さんにかかることはめったに無かった。今回は国民健康保険から随分沢山払っていただいた。日本の健康保険制度の有難さを実感した。

  医師、看護師など医療関係者は皆献身的に働いている、そのサービスからすれば医療費は決して高く無いと思った。しかし、入院して周囲を見ると大勢の患者がいる、中には高額医療を受けている人もいる。このままでは保険財政は大丈夫だろうかと考えてしまった。