宮之浦岳 (屋久島) 1936m

    宮之浦岳は屋久島にある九州で最も高い山で日本100名山の一つである。50年前と52年前の大学時代に単独行で2度登っている。当時(昭和37年10月、39年8月)は屋久杉の伐採が盛んにおこなわれていた。山中の小杉谷には集落があり、営林署の職員、作業員が家族とともに住んでいた。切り出した屋久杉の搬出のため軌道が小杉谷から麓の安房まで敷設されていてトロッコが走っていた。職員や家族もこのトロッコに乗って安房まで往復していたようである。

    林芙美子の小説「浮雲」の中に、営林署の職員となって山中の小杉谷に赴任する恋人に病を押して付いて行き結局は亡くなる主人公の悲しい話が出ている。戦後の昭和20年代が時代背景となっている。話の中にやはり小杉谷までの軌道やトロッコが出ている。

    深田久弥の「日本100名山」の宮之浦岳の部分を見ると、深田もやはり材木運搬のトロッコに乗って安房から小杉谷に上がり小杉谷から花の江河、宮之浦岳、永田岳を経て永田集落まで縦走している。昭和14年12月のことである。深田はその25年後の昭和39年に屋久島は国立公園に包含されるようになって次第に有名になって来た。飛行機も通うようになって再遊の機会が得られるかも知れない。しかし、再遊などせず土産物も絵葉書も無かった昔の素朴な屋久島の思い出に浸っていた方が賢明かもしれないと結んでいる。

    私がたまたま取っていた50年前の宮之浦岳の山行記録を見ると、一日一回観光協会が料金を取ってこのトロッコに乗せてくれたとある。丁度屋久島が国立公園に編入されて霧島屋久国立公園となった時期であり、深田の「日本100名山」の初版が出版された頃である。

   「日本100名山」を見て宮之浦岳に登った訳では無いが、2度目の昭和39年8月には深田と全く同じルートを辿り安房から小杉谷までトロッコに乗せてもらい、石塚歩道、花の江河、宮之浦岳、永田岳を経て永田集落まで縦走している。当時はワンゲルの大学生あるいは地元の高校生、中学生が奥岳詣りで上がる程度で、縦走中に出会う人はごくわずかであった。

    その後、縄文杉が昭和41年に発見されている。昭和40年代半ばに屋久島の自然保護運動の高まりもあり屋久杉の伐採が全面的に取りやめとなり美しい屋久杉の森が保全されるようになった。また、大勢の営林署職員、作業員及びその家族が住んでいた山中の小杉谷も廃集落となって久しい。
   
    25年前には屋久島が世界自然遺産に登録された。それ以来大勢の観光客、登山客が押しかけていると言う話を聞くと、深田と同じように昔の思い出に浸っている方が良いかなと敬遠していた。

   数年前に屋久島、宮之浦岳登山のガイドブックを見てみた。屋久島の山中には新たな道路が出来ており、昔と比べてアクセスが良くなっている。新しい登山道も出来ているようであった。一方、昔乗った安房から小杉谷へのトロッコの軌道は立ち入り禁止となっている。さらに、小杉谷から安房川南沢を辿り花の江河に至る石塚歩道は廃道になっていた。

    屋久島、宮之浦岳登山道も随分変わったのだなと思うと同時に、50年ぶりにもう一度行って見ようかと思った。また、山行記録では小杉谷から上がった石塚で集会所に泊めてもらい、石塚の佐々さんにお茶や夕食の世話になったとある。石塚と言う集落あるいはお世話になった佐々さんにも興味がある。屋久島に行った時に調べてみようと考えた。

    50年前は東京から普通列車から急行列車を乗り継いで30時間以上かかって鹿児島に着いている。また鹿児島から屋久島まで定期船で一日がかりであった。合わせて2日かかっている。

    今回は羽田から鹿児島まで飛行機、さらに鹿児島から飛行機を乗り継いで屋久島まで行ける。朝7時過ぎに群馬の自宅を出て屋久島に着いたのは夕方5時。おまけに事前に軽登山靴、寝袋、テント、バーナー、コッヘルなどが入った大きなザックを宅急便で初日に泊まる予定の民宿に送っていたので、小さなデイパックを携帯したのみであった。本当に便利になったものである。隔世の感がある。

    50年前と同じ8月6日から
12日にかけて屋久島に行き7日から山小屋あるいはテント泊で1泊あるいは2泊で行くことにした。タクシーで淀川登山口まで行き、淀川小屋から花の江河を経て宮之浦岳、永田岳に上がり縦走する予定を立てた。

    運悪く台風12号が接近している時期で、残念ながら稜線上は風雨が強く曇っていて見通しは全く効かなかった。また、永田岳方面に行く事は止めた。

    登山道は以前と比べて整備されており、木道と標識が随所に設置されていて道迷いの恐れは無かった。しかし、登山道の一部は沢のように水が流れており、雨に濡れた木道は滑り易く注意をしながら歩いたにもかかわらず滑って転んで打撲した。

   それでも、宮之浦岳に至る稜線上はやや風雨が強かったが、ただ一人誰にも会うこと無く、複数の鹿の歓迎を受けながら縦走できたことに満足の山行であった。

2014年8月7(木) 小雨時々本降り 風やや強し
   単独
  淀川登山口(5:30)-淀川小屋(6:20)-花の江河(7:40~7:50)-投石岩屋(8:40~8:45)-宮之浦岳(10:40~10:45)-焼野三叉路(11:10)-平石岩屋(11:45~11:55)-新高塚小屋(13:45~13:50)-高塚小屋(15:00)
  登高高度:580m 下降高度:610m 
    前夜は安房の民宿に宿泊しザックにパッキングし登山の準備をした。朝4時に起床。パンとお茶の軽い食事を取った。頼んでいたタクシーが4時半にやって来た。外はまだ暗い。雨は降っていなかったが、台風の接近で雨が降りそうな予報であったので上下の雨具を着用した。タクシーで淀川登山口に向かった。途中の屋久杉自然館の所では沢山の車が停まっており大勢の登山者が見えた。荒川登山口から屋久杉の象徴ともいえる縄文杉まで往復するために荒川登山口に向かうバスを待っているのであろう。
    淀川登山口に着いたのは5時20分。誰もいない。登山口で登山届を出して歩き始めたのが5時半。小雨がぱらついてきた。未だうす暗い林の中の登山道をゆっくり歩いて淀川の橋を越えた所に淀川小屋があった。立派な小屋である。小屋の前には2人の女の人が立っていた。彼らは昨日高塚小屋から宮之浦岳を経てここまで来て泊まり、これから下るとの事であった。昨日は山の上ではガスが晴れて周囲の眺望が素晴らしかったと言っていた。

    淀川小屋                                   樹林の中の登山道
          

    雨はやや強くなったり弱くなったりしたがずっと降り続いていた。林の中をゆっくり歩いて一時間。突然目の間に湿原が現れた。小花之江河の標識があった。湿原の遠くはガスに覆われて良く見えない。

    小花之江河                                    小花之江河の湿原                                  
         

   少し歩くと花の江河の標識がある湿原地帯に出た。日本で最も南にある高層湿原である。小雨の中、立ち止ってしばらく辺りを見回した。木道が整備されていたが、湿原と周辺の様子はうっすらと記憶にある50年前と同じである。

   花之江河(立派な標識、木道があったが、昔と同じ景色)        花之江河の湿原
        

   花の江河から上がる谷筋の登山道は水が流れていて沢のようなっていた。出来るだけ登山靴が濡れないように石伝いに上がろうとしたら、滑って左膝をついてしまった。膝頭が石に当たって痛い。痛みが引くまで少し立ち止まってから歩き出した。左手に行くと黒味岳に上がる標識に出た。晴れていたら立ち寄る所だが、小雨が続いており曇っていて眺望は効かないのでそのまま進んだ。

    沢のように水が流れている登山道                     投石岩屋(昔この近くで野宿した)
       

   しばらく行くと投石岩屋に出た。大きな岩が張り出していて雨宿りをするには最適の場所である。50年前にはここで一泊した所である。辺りを見回ししばらく休憩した。後は稜線の左側の笹や灌木の中の登山道を進んだ。
   雨はそれほど激しくないが風がやや強くなってきた。途中で鹿が登山道上で周囲の草を食べており近づいても動く気配が無い。行く手をブロックされてしばらく待ったが、動きそうもないので2本のストックを互いに打ち付けてカチャカチャ鳴らすとようやく前に動き出した。しばらく登山道の手前を歩いていたが、左にそれて見えなくなった。

     登山道の目の前で餌を食べるのに夢中な鹿            宮之浦岳山頂(風雨がやや強く、カメラのレンズに水滴が付く)
         

    雨が降り続く見通しが効かない登山道を黙々と進んだ。最後の水場を過ぎてわずかな距離で右手に行くと翁岳の標識が出ていたが、もちろんパスして先に進んだ。大きな岩が散在している小ピークの栗生岳を通り過ぎて上がり切った所が宮之浦岳の山頂であった。山頂標識の右手に大きな岩塊が見えた。風雨が強く見通しは全く効かない。それでも、このような悪条件下でも登ることが出来てたった一人頂上に立てたことに満足した。50年前は天気は良く周囲の眺望を楽しみながら長居したが、山頂ではただ一人で途中で出会った人も少なかったように記憶している。
   風がやや強かったので頂上にいたのは5分程度。わずかな下りで焼野三叉路に達した。立派な標識があり左手に行けば永田岳方面である。当初の計画では永田岳から鹿の沢小屋まで行く予定であったが、台風が近づいてくるのでさらに条件が悪くなりそうで取り止め。そのまま進んで宮之浦歩道を進み新高塚小屋あるいは高塚小屋で一泊することにした。

    焼野三叉路                                      平石岩屋(ここで昼食)
        

   シャクナゲなどの灌木の間の登山道を下った。途中の稜線沿いでは宮之浦岳や永田岳の展望が良い所があるはずだが、見通しは全く効かずただ通り過ぎるだけ。平石岩屋に着いたた所で大きな岩陰で雨宿りをしながらパンとお茶の昼食で休憩。その後は小雨の中を稜線上を進んだ。時々雨は強くなり風も出て来たが問題無い。
  途中展望台の標識があり、晴れていれば宮之浦岳、永田岳の眺望は良いだろうが全く見えない。道は灌木帯から樹林帯に入って来た。新高塚小屋に到着。誰もおらずひっそりとしている。ここにで水場の沢の水を汲んで2Lのポリタンクに入れた。樹林帯をさらに一時間歩を進めると高塚小屋に出た。小ぶりだが新しい山小屋できれいで居心地は良さそうである。3階の構造になっており、2階には階段、3階には梯子で上がれる。3時になっていたので、今日はここで泊まることにする。

   登山道沿いの大きな屋久杉                             ヒメシャラ林に囲まれた高塚小屋(ここで泊まる)
              

   中に入り着替えをして、濡れた雨具、衣類、靴下を土間の上のの上に張ってあった細引きにかけて干した。他に誰もいないので一階全体にザックの中身を拡げてエアーマット、寝袋をしいた。後はお湯を沸かして、フリーズドライのご飯、コーンスープで夕食を取った。 
   後はやる事も無い。寝袋にくるまって休んでいると、外で人声がする。急いで起き上がり、拡げていたザックの中身を片側に寄せ集め、干していたものも一か所に集めた。やって来たのはガイドと客の親子3人であった。驚いたことに、7時をやや過ぎており、しかも6歳の子供連れであった。雨の中を長時間歩いたはずであったが、男の子は元気そうであった。日ごろから山歩きをしていて慣れているのだろうか。親子3人連れは2階に上がり、ガイドは一階に荷物を置いた。
   ガイドはすぐに全員の夕食を作り、2階で客の3人と食べていた。楽しそうな会話が上から聞こえてきた。食後、ガイドは2階から降りてきて後片付けをしていた。客は上で寝始めたようである。隣にいるガイドと少し話をした。地元出身の60代のベテランガイドで屋久島の山について詳しい人であった。
   客は東京から来た人で、飛行機が送れたので出発が遅れて小屋への到着が遅くなってしまった是非縄文杉まで行きたいとの客の要望に応えて、台風が来る前だが今日、明日は未だ大丈夫だろうと小雨の中を上がって来たとの事であった。荒川登山口までのバスは今日の午後から明日、明後日は運休するので、荒川登山口に下山するなら、タクシーを呼んだ方が良いとのことであった。
    ついでに、50年前に通ったが、現在は廃道になっている石塚歩道や石塚集落の事を伺った。そのガイドも石塚歩道を上がって宮之浦岳に上がったことは無いが、かって存在していた石塚集落や石塚に住んでいた佐々さんについては御存知であった。50代半ばになる佐々さんの息子さんが知人だと言っていた。
   9時過ぎに就寝。
8月8(金) 小雨時々本降り
  高塚小屋(7:00)-縄文杉(7:10~7:30)-大株歩道入口(9:30)-小杉谷(11:35~11:40)-荒川登山口(12:35)
   下降高度:730m 

   朝6時前に起床。外は小雨が降っている。濡れた衣類を着るのは気持ちが悪いが一日中雨のようでどうせ濡れるので昨日の濡れた衣類、口下を履く靴下を履く。お湯を沸かしてフリーズドライのご飯御の朝食を終え、雨具を付けて7時に出発。同宿者もほぼ同時に出発した。携帯電話が通じる小屋の下の東屋で電話をして12時半のタクシーの予約をした。有名な縄文杉の前でしばらく立ち止まって眺めた。雨と霧に覆われて霞んで見えた。確かに大きくて立派だ。
   
   縄文杉(雨とガスでやや見づらい)                         切り株の間を行く登山道
         

   雨に濡れてやや歩きにくくなった大株歩道を下って行った。途中、大きな屋久杉の樹林帯を通る。大きな杉の根元の中を通り、夫婦杉、大王杉を経てウイルソン株に到着。50年前にもウイルソン株の名前はあったように記憶しているが、石塚歩道を上がったのでここは通らずお目にかかるのは始めてである。江戸時代に伐採された後の切り株だそうだが、確かに大きい。切り株の中に入ると、沢が流れており傍らには小さなお堂があった。

夫婦杉                             大王杉                          ウイルソン株の中
    

   翁杉の標識があるが肝心の杉は倒壊したと言う箇所を通り過ぎて大株歩道入口に到着。後はずっと下までトロッコの軌道が続いていた。傾斜は緩くなり歩き易くなったが。雨に濡れた軌道上の木道は滑り易く注意する必要がある。途中で白谷雲水峡から上がって来たと言う5,6人連れに出会った。台風が近づいて雨が降っている中を上がって来たのに驚く。縄文杉まで往復すると言っていた。
   小杉谷山荘跡の近くで、52年前の10月にはここに泊めて貰ったのかなと思いながらよそ見をして歩いていたら濡れた木道に滑って転んだ。右のわき腹、肩、頭をぶつけて痛かった。痛みが収まるまでしばらく休んだ。楠川歩道に向かう標識を過ぎた。かっては対岸の石塚歩道に向かう橋もかかっていたような記憶がある。
   小杉谷集落跡は人影が全くない。辺りは植林されたようで、かって集落があり大勢の人が住んでいた事がうそのようである。小中学校があった所には記念碑が立っており、当時の子供たちの写真が掲げられていた。小雨の中をしばらく立ち止まって眺めていた。

小杉谷小中学校の記念碑、写真               雨にけむる小杉谷集落跡               安房川に架かる橋を行く
   

   安房川を渡る橋を渡り石塚歩道の方に向かう軌道を眺めた。すでに使われなくなってから長いようで草に覆われていた。濡れて滑り易い軌道上を注意しながら歩いた。トンネルを越えてから軌道を離れて少し上がると荒川登山口の駐車場に出た。予約していたタクシーが待っていた。バスは完全い運行を止めていたが、登山口には係りの人がいた。この人に環境保護金(入山料?)を募金してからタクシーで安房に向かい予約していた民宿に到着。
   
   台風が通過して天気が良くなった10日に屋久杉資料館、屋久島世界遺産センターに行って、屋久杉、かって存在した小杉谷、石塚集落の展示、映像を見て係りの人に話を伺った。石塚集落にも結構大勢の人が住んでいて伐採、運搬、植林などの事業に従事していたことを知った。泊めて頂いた集会所、お世話になった佐々さんのお宅が書かれた地図を見たが、まったく記憶が無い。50年の歳月の流れは長いなーと実感した。

GPSトラック(電池切れのため淀川小屋-栗生岳間のトラックが無い)